過去の性犯罪疑惑をめぐって社会的に追いつめられるウディ・アレンについての真摯なエッセイ。「この件をスルーして能天気にアレン作品を語るということはもはやできないと思っている」。

日本に限らず世界中の社会問題や政治問題が日々ネットで語られていて、その善意の人たちのコメントを眺めていると自分も何かしら意見を表明しなければならない気になり、それをしないだけでも後ろめたい気分になってくる。ただ単に日本人でいるだけで、男性でいるだけで、大人でいるだけで、人間でいるだけで、世界中の無数の問題を背負っているような気がしてしまう。気楽にウディ・アレンの新作を語ることもできない。これはちょうど今読んでいる『大衆の反逆』(1930)でオルテガが指摘する「生の増大」という現象に基づくことだろう。「つまり各自が、いつも世界全体を生きている」(佐々木孝訳、岩波文庫、2020年、p.102)。
一方、下の文で書かれる佐藤伸治の「エイズなんて関係ない」という態度はなんなのか。誰も敵にすることなく世界的な正義の行いができるのに、それを断じて拒否する態度に僕はなぜか共感する。今日の半日は、この記述がどこに載っていたか探すことに費やされた。

 たとえばこんなエピソードがある。フィッシュマンズは12月にアゲインスト・エイズのイヴェントに参加した。が、この出演を彼らは、というか佐藤くんはとても嫌がってた。なんでも、出演を受けた後でイヴェントの趣旨を知らされたのだという。11月のライヴでも「オレたちはダマされたんだ! 絶対にチケットは買わないように。オレにはエイズなんて関係ないんだ。自分のことだけで精一杯なんだ」みたいなことをしきりに言っていたし、今回の取材でその話が出たときも、「エイズだって、身近なモンダイって言われてるけど、オレには身近じゃないもん。どうして出なきゃなんないの?」と強く主張する。

  • インタビュー・文=水越真紀、『ele-king vol.11』1996年(所収:『フィッシュマンズ全書』小野島大編、小学館、2006年、p.211)

しかし同時に、矛盾するようだけど、サン=テグジュペリの次の言葉にも僕は共感する。あるいは佐藤伸治も(人一倍)共感するかもしれないと思う。*1


佐藤伸治は本当に「エイズなんて関係ない」のなら、他の音楽イベントと同じようにさらっと出演すればいいだけだっただろう。むしろ佐藤は恥を知っていたのではないか。
この「関係ない」という態度は、巷でよく言われる「音楽を社会的メッセージに使いたくない」という芸術の自律性の話でもあるかもしれないが(しかし佐藤伸治は音楽と社会的メッセージが一体となったボブ・マーリーや忌野清志郎を好んでもいた)、それに限らず、より深く思想的なところに根ざしている気がする。佐藤伸治(フィッシュマンズ)の歌詞は抽象度が高いけれど、それは自らが生きている世界(日常)を抽象化しているのであって、初めから自分と関係なく外在する抽象的な世界を歌っているのではないということは重要だろう。言ってみれば、前掲の「生の増大」ではなく、それと逆向きの「生の抽出」というような志向。自分がいる日常のレベルでの生にとどまり続ける意志は、世界の安易な全体化を拒むのと同時に、自分とは異なる他者それぞれにとっての世界を尊重することにも結びつくはずだ。
「世界全体」という空想的な観念を持たずに複数の世界が自律的に併存することをよしとするイメージは、例えば「幸せ者」という曲の歌詞、「みんなが夢中になって暮らしていれば/別に何でもいいのさ」に直接的に現れている。また例えば「POKKA POKKA」の歌詞の一節、「だれかにだけやさしけりゃいい」は、佐藤伸治が世界的な社会問題を「関係ない」と言ってしまうのと同様にひどく閉じた印象を与えるけれど、以上のような世界観を前提にするなら、僕にはそれほど身勝手な言葉とは思われない。

*1:前にも佐藤伸治とサン=テグジュペリの言葉を結びつけたことがあった(2019年4月4日