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アッバス・キアロスタミの『10話』(2002)での盗作および同時期の性的暴行を告発するマニア・アクバリ(『10話』の出演者としてクレジットされてきた女性)の談話記事。英文をGoogle翻訳で読んだため、内容はごく大まかにしか捉えられていないけど、具体的な記述も多く、一定の信憑性のある語り口だと感じられる。キアロスタミについては最近ブルーレイで買った『クローズ・アップ』(1990)を観て、あらためて感銘を受けたばかりだった(監督の作品歴だけでなく、広く映画史においても、ある方向での傑出した作品ではないかと思う)。もう一度観てからここで何か書いてみようかと思っていたところで、このニュース。
以前このブログで、その作品を観ることによって友情を抱くことができるような映画監督として、10人あまりの名前を挙げたことがある(2017年2月6日)。そこにキアロスタミもいた(ウディ・アレンもいた)。だからこんなとき友達ならどういう態度をとるだろうかと考えている。これまでどおりに付き合う? だまって距離をおく? 友の無実を信じて訴える? 正義の名のもとに厳しく断罪するのもまた友情? とりあえず「信じていたのに裏切られた」とは言いたくない気がする。
『10話』については20年ほど前の公開時に観たきりなので、作品について確たることは言えない。ただ、僕が知るキアロスタミであれば、もしその映画を構成する極めて興味深い映像群が自分ではない誰かによって撮られていたなら、それらを勝手に編集して作品として完成させるくらいのことはしても不思議ではない。しかしその作品を無断で、自分の名前だけで強引に発表するのは明らかに一線を越えている。仮に告発の内容が事実なら、なぜキアロスタミはそのようなことをしたのだろうか。他人による断片的で未完成の映像を用いながらも紛れもない「キアロスタミの映画」を作り上げてしまうようなことは、フィクションとドキュメンタリーがない交ぜになった彼の作品性からして十分にありえる創作行為であり、たとえ作品成立の経緯を隠さずに公正に連名で発表していたとしても(マニア・アクバリはそれすら望まなかったかもしれないが)、そのことで彼の仕事の価値が低く見積もられることなどなく、むしろマジックのようなその編集術でさらに名声を高めることになっただろう、と多くの人が想像するのではないかと思う。
性犯罪のほうはなんとも言えない。おそらくキアロスタミの作品そのものに、そのような犯罪の兆しを見いだすことは難しいのではないだろうか(それは別に犯罪の可能性を否定しない)*1。近年の映画界において性犯罪で告発される男性の多くが、立場の弱い複数の女性に対してほとんど見境なしに犯行に及んでいるように見えるのに対し、キアロスタミの問題は自らの存在と深く関係する特定の人物に限られていることは留意しておくべきかもしれない(ウディ・アレンもそうだった)。



『10話』プログラム(ユーロスペース、2003年)より

※2023年2月23日追記
以下、マニア・アクバリの告発を映画批評的に検証する内容。「アクバリは当初、キアロスタミがミソジニストで「無数の女性が彼の性加害の被害者だった」とツイートしたが、これといった反応がなかったため、ほどなくしてツイートを削除したという。」

*1:これはもしかしたら僕の認識が偏っているのかもしれず、たとえば古谷利裕さんが『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)に対して指摘するような作品の質(https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20130516)が今回の告発になんらか関係しているということもありえなくはないのかもしれない。僕には古谷さんのような違和感はなく、その作品も興味深く観ていた(https://richeamateur.hatenablog.jp/entry/20121001)。