アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)をユーロスペースで観た。えもいわれぬ映画体験。役者に対する演出や認識(役者の有名性や演技経験の有無にこだわらず、通りがかった一般人をエキストラに起用したり、主演女優に「ふつうに喋っているだけで大丈夫だから、芝居をしようと考えないで」と言ったり、すべての役者に翌日撮影する分の台本しか渡さなかったりするようなリアリズム)は、このまえ読んだ『ジョン・カサヴェテスは語る』に書かれていることと重なると思うけど(9月15日)、そうして役者そのものの個性を引き出しつつも、キアロスタミはそれら個々の存在を要素として捉え、よりレトリカルで巧妙に全体を組み立てている。映画のなかで、嘘や演技、気まずさといったものを描くのは前作の『トスカーナの贋作』(2010)と共通する(2011年3月23日)。そして映画のわざとらしさ、虚構性をおそらく意図的に明示することで、この作品でも映画の登場人物としての人生と、それを演じているはずの役者その人の人生とが二重に見えてくるような感触が生まれるのではないか。その前提には監督のドライで非人情的な視線があるとしても(決してなにかひとつのテーマに回収できる作品ではないし、回収されるのを意識的に避けているようにも見えるけれど、そうしたなかでも比較的強いテーマとして「老醜」があるように思えた。ただそれは同時に、老人をある種の定型として描かず、デートクラブで働く女子大生やその恋人であるDV男と等価に、生きた人間としてその人をまなざしていることの現れでもあると感じられた)、その操作によって物語が豊かな広がりをもち、観客の人生にも響いてくるのだと思う。
そういった物語としての構造が機能するよりも先に、あるいは機能する条件として、個々の場面がすばらしい。物語から独立したものとして、その個別の時間、個別の空間に価値がある(それはカサヴェテスの映画も同じだ)。そのすばらしさはカメラや音声によって演出された、言ってみれば現実離れした(現実にはそのように見えない、聞こえない)映画技法によるもの、巨匠のセンスや円熟がなせるものかもしれない。しかし、別に比べる必要はないかもしれないけども、たとえば同じように映画という形式固有の時空間を見事に出現させたものとしてふと思い浮かんだホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』(2007)と比べ(2010年8月26日)、作品をつくる上での根っこのようなものが、キアロスタミにはより確かにあるように思えてならない。だからこそそうした個々の場面が物語と一体化し、作品世界が有機的に現れてくるのではないだろうか。