f:id:richeamateur:20210919121055j:plain
写真を撮りながら近所を散歩。上のはいつもつい写真を撮ってしまう場所(やむなきことだろう)。よく晴れていて、画面左奥の富士山が見えた。ここから富士山が見えることを初めて知った。
まえの日記で引用した島崎藤村の「写生」(『新片町より』左久良書房、1909年)に、以下の文があった。これも分かるような気がする。

思ふに、こちらに生気のある時でなければ、真に『生』を写すことは出来ない。

絵画や文筆などの創作とちがい、ただシャッターボタンを押すだけで撮れてしまう写真でも、やはりくたびれて集中が切れているときは力のない写真になってしまいがちだ。それを考えてみると、ふと思い当たることがある。まえに「午前の光には魅力がある」ということを書いたけど(5月2日)、晴れた日の午前中において自分なりに手応えのある写真が撮れやすいのは、単に透明な光に照らされた被写体の状態だけの問題ではなく、その同じ午前の光によってもたらされる自分の「生気」の問題でもあるのではないだろうか、と。
以下、写真7点。歩いたのは4月30日とだいたい同じルート。すべて撮影順。
f:id:richeamateur:20210919121029j:plain
f:id:richeamateur:20210919122012j:plain
f:id:richeamateur:20210919125059j:plain
f:id:richeamateur:20210919125938j:plain
f:id:richeamateur:20210919130400j:plain
f:id:richeamateur:20210919132742j:plain
f:id:richeamateur:20210919133344j:plain