先日(9月27日)のリベンジであらためて原美術館を訪れ、「光―呼吸 時をすくう5人」展を観た(〜1/11、要予約)。どの作家の作品も現実的な空間に想像的な時空が重ねられているという点で共通するのではないかと思う。それは原美術館(旧原邸、設計=渡辺仁、1938年竣工)という現実の空間の最後の展覧会であることと響き合うような気がした。
どれも見応えがあったなかで、特に佐藤雅晴の《東京尾行》(2016)が印象深い。動画作品が展覧会場で流されていると「YouTubeでいいじゃん」と思ってしまいがちだけど、これは原美術館の現実の空間で観る意味がある(出展作は下のYouTube版よりずっと長いというか多い)。

短い断片が集合した映像なのでどこから観始めてもストレスがないという展示上のメリットも大きいけれど、YouTubeだと鑑賞者自身が作品世界をその都度ゼロからスタートさせるのに対し、展覧会場では散在する複数のモニターでそれぞれの断片がエンドレスに流され続け、自分と関係なく存在する多様な世界の印象をもたらす。そして実写+アニメによって現実と想像の時空を重ねるような作品のあり方は、(自らの私性に覆われた私室で観るよりも)さまざまな歴史や文脈をたたえたこの空間に身を置いて観ることで、鑑賞者自身もその作品世界に反響し混じり合うような効果を強める気がする。
1階の会場全体に流れていた無人ピアノの演奏(ドビュッシー「月の光」)は、空間的に断片化された作品世界を音によって統合する機能をもつ。無人でありながら鍵盤が動いて音楽が演奏され続けるピアノは、「ここではないどこか」を想像させる装置として、それ自体が現実と想像の時空を重ねる作品の一部であり、またかつて住宅だった(裕福な一家の洋風の邸宅で当時からピアノが置かれていたかもしれないと思わせる)原美術館の空間とも響き合う重要な要素になっていた。
実写の一部をアニメに差し替えるという手法自体はきっとだいぶ昔からあるだろうし、コマーシャルに使われそうな大衆性も感じさせるものの、作品としての切り取り方や完成のさせ方がよいのだろうと思う。そうした手法の単純さや原始性、大衆性が作品の力になっている。アニメ化された部分のほうにむしろ生き生きしたものが感じられる(そしてそれが周囲の環境や背景も活性化させる)という経験は、抽象という行為の意味や人間の認識の仕方、世界のあり方を考えさせる。