昨日は原美術館の後、岡﨑乾二郎さんのふたつの展覧会「TOPICA PICTUS てんのうず」Takuro Someya Contemporary Art(〜12/12)と「TOPICA PICTUS きょうばし」南天子画廊(〜12/12)をハシゴし、さらに日本橋髙島屋の美術画廊Xで「海へ還る──緒方敏明展」(〜12/7)を観た。


  
岡﨑さんの〈ゼロ・サムネイル〉シリーズは、それが十数年前に作られ始めた頃には、キャンバスとして最小の単位を用いることで美術の高度な専門的文脈から離れた「そのもの」(色、形、それらの組み合わせ)としての魅力が迫ってくるような印象があったのだけど(僕には)、ここ数年の岡﨑さんにおける歴史への積極的な言及や『抽象の力』(亜紀書房、2018年)などの仕事を経て、〈ゼロ・サムネイル〉の小さな作品群がじつは美術の歴史の網の目のなかに深く組み込まれていることが浮かび上がってきた。岡﨑さんにとっては最初から当然のごとくそういうものだったのかもしれないけど、今の岩波のウェブ連載()やいくつかの展覧会場で掲示ないし配布されているプリントによって、〈TOPICA PICTUS〉ではそうした関係性のありよう(制作した絵とテキストと参照された作品の「三体問題」)が実際にテキストで表現されるようになってきている。とはいえ作品がそのように歴史的なネットワークの中にあることと、作品がそこに「そのもの」としてあることとは、決して矛盾するわけではないのだろうとも思う。あるいはむしろ作品が「そのもの」としてあるからこそ、歴史的なネットワークにも確かに存在しうると言えるだろうか。


     
「海へ還る──緒方敏明展」は陶芸による作品群。未知の作家だったけれど、たまたまネットで展覧会のことを目にして訪れてみた。会場に掲げられた舟越桂による短文「緒方君の建物を飛ぶ」で書かれているとおり、ミニチュアとして想像的に身を置くことができる空間性を備えているように思われる。ファンタジー性の強いかたちもあるけれど、シンプルな外形のものは1970年代に坂本一成さんがつくっていた建築やその模型、あるいは当時の文章を思い起こさせる。

 それは単に家の形をしていたにすぎない。かといって具体的な形を思い出すこともできないのだが。町の一画にひどくあたりまえに、穏やかに、そしてそこにあることに疑いをもたせない何気なさのなかにあった。一見素朴でありながら、粗野というわけでなく、むしろ洗練されているかに見えた。それはその町の片隅のまわりの家々から必ずしも際立ってはいなかったが、埋没しているわけでもなかった。[…]どこかにこの家はあった。私の生まれた町の一隅にあったかも知れない。いやもしかしたら幼い時の絵本の1ページにあったのかも。あるいは旅の汽車から下りた小さな町での家かも。いやそんな遠くでなくともこの町のどこかにもその家はありそうなのだが。こんな記憶の家があなたにもないだろうか。

  • 坂本一成「家形を思い、求めて」『坂本一成 住宅─日常の詩学』TOTO出版、2001年(初出:『新建築』1979年2月号)


原美術館とTakuro Someya Contemporary Artは同じ品川区内で意外と近く(それぞれの場所の地域性はかなり異なる)、写真を撮りながら歩いて移動したのだけど、帰宅して数日後、一眼レフで撮ったそれらの写真をうっかり削除してしまった。iPhoneと一眼レフを併用することで起こったミス。街のかたちも面白く、けっこういい感触で撮っていたので残念だ。