本は読み過ぎてはならないというより、一定以上には読むことができないのである。人間が読んで消化し、血肉とできる本の量は、ほんとうはごく僅かであって、それは私たちの、言ってみれば精神的な生の限界と重なっている。だから、読む本は、生涯の内で慎重に選ばれなくてはいけない。
[…]読書し過ぎて馬鹿になることは、実にたやすい。読書で精神の血肉を養う工夫は、生きる努力そのものと一致している。ひとつの魂が、自己自身を超えて行こうとする努力と、必ず一致しているだろう。それを知らなければ、読書こそは百害無益、人を口達者な愚か者とするのに一番手ごろな手段である。(pp.90-91)

前田英樹『愛読の方法』(ちくま新書、2018年)を読んだ。「見得でするやたらな読書は、何と人を間抜けに、阿呆にしてしまうものか」(p.11)という読書批判・文字批判を含んだ読書論。「真にものを言うということは、単に何かを言うだけではない。何者かが何者かに向かって何かを言うことなのだ」という、このまえ読んだオルテガの『大衆の反逆』(8月23日)にも繋がっている。

 どんなに不完全なもの、整っていないものでも話す言葉は、おそらく書かれた言葉以上に生きる上では大事なものだ。ごまかしの利かないものだ。紛れもないその人が、今そこにいる、という感触を、実感を、私たちはその人が現に話す言葉からじかに得ている。あまりにも直に得ているだろう。言葉の意味というものは、声の抑揚、強弱、リズムから決して切り離せないし、もともとはひとつのものである。ということは、言葉の意味は、話されるたびごとに、そこに生まれ、人の心に入り込み、そこで別の命に生まれ変わって持続していく、そういうものだということでもある。(p.14)

今度のトークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」()は、『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』の書評(10月17日)で考えが及ばせられなかったところを考えたいと思って企画したのだけど、自分で追加のテキストを「書く」のではなく、複数で「話す」ことにした一因には、上記のような「ごまかしの利かない」話し言葉の性質がある。
以下、抜粋メモ。

 反対に、文字にされ、印刷され、あるいは電子化されて、誰の魂とも、体とも無関係になった知識は、また、それを語っているかに見える言葉は、誤解されるというよりも、ほんとうの意味を持たない虚ろな符号として無差別に世間を浮遊するのである。そんな符号をやたらにたくさん貯め込んだ人たちを、情報通だとか、識者だとかと世間では呼ぶようだが、プラトンに言わせれば、彼らは、誰からも「親しく教えを受け」た者たちではない。物品を輸入でもするように、自らは生きて確かめたことのない知識を、文字を通して仕入れたに過ぎない。そのくせ、物識りの自負だけは、人一倍持っている彼らは、「知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達」した、いたって「つき合いにくい人間」たちだということになる。誰にも、そういう知り合いがいよう、身に覚えもあろう。(pp.40-41)

 読書はとにかく大切だ、などとは到底言えない。大切なのは、つまり愛読に値する本だけ、ただそれだけである。(p.95)

 古典は、人を選んで、そのなかに棲みつくことで生き延びる。この場合、生き延びるとは、古びて遺物となっていくことではない。愛読者の系譜を通し、絶えず新しくなる命を持つことである。古典とは、誰かの愛読を捕らえて、絶えず新しくなろうとしている本のことを言う。愛読の行為は、時代も地域も言語の違いも軽々と超えていく。そもそも近代の歴史学は、人間の精神が、その感じ方や思考の型が、時代と地域とから産まれ出た子供であることを、強調しすぎたのではないか。(p.103)

 「論文」を書く人の多くは、どんな本であれ、ちょいと読んで、ああわかった、とすぐに言うような人である。わかれば、たちまち自分の見解を、「批判」を述べたがる。それで一向に構わぬ本もあろう。しかし、そんな具合に扱っては、何の意味もなくなってしまう本がある。そういう本を古典と呼ぶのである。「批判」される要など少しもなく、ただ自分のためだけに読み続ける読者が、少数だが、いつの時代にも繰り返し生まれてくる本、これが古典と呼ばれるものなのだ。
 もっぱら「論文」を書く「批判」派の学者たちは、一見すると言葉を簡単には信じない人々に見えるが、実はそうではない。むしろ、彼らほど、書かれた言葉を軽々しく信じる者はいないかもしれない。軽々しく信じられたものは、用がすめばたちまち棄てられていく。ほんとうの信を育てようとする人は、簡単に言葉を信じない。それどころか、他人がみな信じてしまったものの言い方を、独りになっても頑強に拒んでいる。そうでなくて、どうして健康な、人の役に立つ学問を建てることができよう。学者ばかりではない、孤独を厭わない覚悟は、日常、私たちが本を読む上にも必要だ。(pp.126-127)

 独創を競って高遠になり、ほしいままの理で、ものごとを縦横に説く体の学問には、独創など何ひとつない。ありふれた、あまりにもありふれた自負や虚栄や慢心があるのみだ。そんなところから述べられる諸説は、好き勝手な理屈に過ぎないから、多種多様にはなっても、ほんとうの個性を持つことはできない。ほんとうの個性は、誰もが嫌でも負って生まれてくる気質、性情からしか育たないものである。
 このような気質、性情は、何かを素直に、まっすぐに学ぼうとした時には、たちまち現われてくる。個性は、そこから育つ。だとすれば、学問をする時には、人は独創的たることを免れないということではないか。(p.139)