オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(佐々木孝訳、岩波文庫、2020年)を読み終えた。1930年に刊行された本だけど、読書中すでにここで2度引用してしまったように(6月17日7月6日)、現在においてもというか、むしろ現在においてこそ強く響いてくる内容とさえ感じられる。だからこその新訳ということでもあるだろうが、これまでの日本語訳にはなかったらしい「フランス人のためのプロローグ」(1937)と「イギリス人のためのエピローグ」(1937)も、それぞれ独立したテキストとして興味深い。
下の言葉などはまさに『建築と日常』No.3-4()のコンセプトと一致する。

[人間の特権とは]要するに、未来のために生き続けながらも、過去の中にも生きることであり、真の現在に存在できるということなのである。なぜなら現在とは、過去と未来が実際に存在する場であり、まさに過去と未来の現前のことだからである。(p.55)

No.3-4の「現在する歴史」特集では、これを建築に引き寄せ、「建築は「今、ここ」の場所をつくりだすと同時に、過去の痕跡であり、未来の兆候である」(巻頭言)と書いていた。特集制作当時はこんな有名な本にここまでそっくりに書いてあるとは知らなかったけど、あの特集で参照していた何人かの人たち、少なくとも吉田健一などは当然この本も読んでいたのだろう(T・S・エリオットとオルテガの関係はどうだろうか)。
ただ、本書の内容に強く共感するのと同時に、この有無を言わさない大衆社会批判・情報社会批判に我が意を得たりとばかりに、今の世の中に対して断罪的な批判の気分を強めてしまうことにも注意しなければならないと思う。そういった「虎の威を借る」ような知的な心性にも、オルテガが批判する大衆性は見いだされるに違いない。さしあたっては、オルテガが言うように(同じことは福田恆存も言っていたが)、安易な解決や解釈に走らず、問題を「よく認識すること」(p.47)だろう。大衆は自分の中にもある。以下、抜粋メモ。

 真にものを言うということは、単に何かを言うだけではない。何者かが何者かに向かって何かを言うことなのだ、という事実があまりにも忘れられている。[…]
 言葉はこれまでの濫用によって、その権威を失墜してしまった。ここで言う濫用とは、他の多くの場合と同じく、配慮なしに、つまり道具としての限界について意識なしに使用することである。ほとんど二世紀も前から、話すとは「万人に向かって」話すことだと信じられてきたが、これは結局、誰に対しても話さないに等しい。私はこうした話し方を嫌悪するし、自分が誰に対して話しているか具体的に知らないときには胸の痛みさえ覚える。(pp.12-13)

 この大衆化した人間は、前もっておのれ自身の歴史を空にした人間、過去という内臓を持たず、「国際的」と呼ばれるあらゆる規律に従う者たちである。それらの人びとはいわゆる市場の偶像によって組成された人間の殻にすぎない。彼らには「内部」が、頑として譲渡できないおのれだけの内面性が、取り消すことのできない自己が欠けている。必要とあらばいつでも、どのようなものの振りでもできるのはそのためである。彼らにあるのは欲求だけであり、自分には権利はあるが義務があるとは思ってもいない。(p.26)
大衆はつまるところ、政治家という少数者が、たとえ欠点や傷はあろうとも、自分たちよりいくぶんかは政治問題を理解していると考えていた。ところが、いまや大衆は、自分たちがカフェーで話題にしたことを他に押しつけ、それに法としての力を付与する権利があると信じているのだ。(p.73)
むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。(p.74)
彼らは文明のもたらす種々の便益が、実は大変な努力と細心の注意によって辛うじて維持される素晴らしい創意工夫と構築であることを見ようとはしない。そして自分たちが果たすべき役目は、あたかも持って生まれた権利であるかのように、それらを断固として要求するのみで事足りると思っている。(p.132)
社会生活の効果に注意しながら大衆というこの新しいタイプの心理学的構造を研究するなら、次のようなことが見出される。第一に生は容易で余裕があり、悲劇的な制限も無いとの生得的かつ根源的な印象。そこから一人ひとりの平均人の内部に支配と勝利の感覚が見出される。第二にこの支配と勝利の感覚は、平均人に、自分の道徳的ならびに知的資産を良きもの、完璧なものとみなすほどの自己肯定へと向かわせる。こうした自己満足は、外部からのすべての示唆に心を閉ざし、他人の意見に耳をふさぎ、自分の意見を厳しく検討せず、他者を考慮に入れない考え方へと導く。支配についての内的感覚は、彼を絶えず優位性を行使する方向へ駆り立てる。こうして彼は、あたかも彼や彼の仲間だけがこの世に存在しているかのように行動するだろう。したがって、第三に彼は自分の凡庸な意見を配慮も内省も手続きも保留もなしに、つまり「直接行動」様式にのっとって主張しながら、あらゆることに介入してくるだろう。(pp.183-184)

 でもとどのつまり、現代はいかほどの高さにあるのだろうか──。
 本当は時代の頂点にあるのではない。それなのに現代は、自分が過去のあらゆる時代、名だたるすべての時代の上に位置していると思っている。現代という時代が自分自身について抱いている印象を定式化するのは容易ではない。つまり他の時代より以上のものであると信じてはいるが、同時に自分が始まりであるとも感じている。しかもそれが断末魔ではないとの確信のないままにだ。そうであるなら、私たちはどのような表現を選べばいいのだろう。おそらくはこうである。すなわち、他の時代より以上のものだが、おのれ自身より劣る時代だろう。きわめて強いものだが、おのが運命に確信が持てない時代、自分の力を誇ってはいるが、同時にそれを恐れている時代、そう、これが現代なのだ。(p.100)

 普通考えられていることとは反対に、本質的な従属関係の中に生きているのは大衆ではなく選良の方なのだ。選ばれた人にとって、何か超越的なものに奉仕することに基づかないような生では、生きた気がしないのだ。だから彼は奉仕する必要性を抑圧とはみなさない。たとえば、たまたま彼に抑圧がないとしたら不安を感じ、もっと難しい、もっと要求の多い、自分を締め付けてくれる新たな規範を案出する。これが規律ある生、つまり高貴な生である。(p.137)
私たちは、有り余った世界に生み出された生の方が、まさに窮乏と戦うそのものの生よりも、より良いもの、より生命に満ちあふれたもの、より上質のものだとの幻想を信じる傾向を持っている。しかし事実はそうではない。(p.185)
私たちに、ある様式で生きることを義務づける命令なしでは、私たちの生はまったく為すすべを知らない待ちの状態になる。これは世界の最良の青年たちでもすでに陥っている恐ろしい心理状況だ。まったくの自由であり、どのような束縛もないと感じることによって、空しさを感じている。為すすべを知らない待ち状態の生は、死よりも大きな自己否定である。なぜなら生きるとはある特定の何かを為さねばならないということ、つまり一つの務めを果たすことであるからだ。ある何かに私たちの存在をかけることを避ければ避けるほど、自分たちの生からも遠ざかっていくことになる。(p.240)
 共存は、それだけだったら社会を意味していないし、社会の中に生きることも、社会の一員になることも意味してはいない。共存はただ個々人の間の関係を意味しているだけである。しかも優れて社会的な現象が自ずと生み出されないかぎり、持続的で安定した共存はあり得ない。ところで優れて社会的な現象とは、知的慣習としての「世論」、生の技術に関する慣習としての「習慣」、行為を導く慣習としての「道徳」、道徳を統括する慣習としての「法」のことである。慣習の一般的な性格は、当人が好むと好まざるとにかかわらず、個人に課せられる振る舞い、すなわち知的、感情的、物理的な規範のことである。(p.353)

 後で見るように、現代の特徴は、伝統を持つ選ばれし少数者集団の中においてさえ、大衆や俗物が優勢になっていることにある。本質的に特殊な能力が要求され、それを前提に成立している知的分野の中にさえ、資格のない、あるいは与えようのない、その人の精神構造から判断して失格者の烙印を押すしかないような似非知識人が、日ごとに勝利を収めているのが現実なのだ。同じ現象は、「貴族」として生き残っている多くの男女の集団の中にも見られる。また、それとは逆に、以前なら典型的な「大衆」とみなされてきた労働者集団の中に、陶冶を受けた高貴な魂を見出すことも、さして珍しいことではなくなった。(pp.70-71)
 ところで結論的に言えば、現代の科学者は大衆化した人間の典型である。これは偶然でもなければ、各科学者の個人的な欠点でもない。文明の根源である科学自体が科学者を自動的に大衆に変えてしまうのだ。科学者から原始人を、つまり近代の野蛮人を生み出してしまうのである。(p.199)
かつては、人間は単純に物知りな者と無知な者、そして多少なりとも物を知っている人間とどちらかというと無知な人間とに分類できた。しかし専門家はそれら二つのカテゴリーのいずれにも括ることができない。彼は知者ではない。なぜなら彼の専門領域に入らないすべてのことについてははっきりと無知だからだ。かと言って何も知らない人間ではない。なぜなら彼は、一応は「科学者」であり、世界の中の自分の極小部分については良く知っているからだ。私たちは彼のことを学者馬鹿とでも言わなければならないのだろうか。事はかなり深刻である。これが意味しているのは、彼は自分では知らないすべての問題に対しても、無知な者としてではなく、自分に特有の問題について知者である人間として衒学的な態度丸出しで振る舞う御仁ということだからだ。(pp.203-204)

 この世界ではあらゆる瞬間に、もちろん今も、数え切れないほどのことが起こっているのは紛れもない事実である。いま世界に起こっていることが何かを言い尽くそうとすることは、自らの思い上がりに自嘲していることだと心得るべきである。しかしまさに現実的なるものの全体像を直接に知ることは不可能だからこそ、私たちはある現実を意のままに構築したり、事物がある一定の様式に従って存在するのだと想定するより他にない。かくして私たちは一つの図式を、つまり一つの概念あるいは概念の枠組みを手にする。私たちはこの枠組みを通して、ちょうど方眼紙の上に見るように、実際上の現実を見るのだが、そのときにのみ、現実に近いおおよその輪廓を知る。科学的方法はこれに立脚している。いやそれだけではなく、知性の使い方すべてがそれに基づいているのだ。(pp.230-231)
現代の歴史的事実を構成する数え切れないほどの事柄を、あまりに簡単な定式に纏めるのは、間違いなくうまくいった場合ですら一つの誇張に堕するだろう。だから私は、好むと好まざるとにかかわらず、思索するとは誇張することなのだということを、ここで想起する必要があった。誇張を望まない人は黙るしかない。いやそれどころか、おのれの知性を麻痺させ、おのれが愚かになる様子に直面せざるを得ない。(p.234)

 全面的政治主義、すなわちすべての物と人間全体を政治へ巻き込むことは本書に述べられている「大衆の反逆」という現象と同じ一つのことである。反逆する大衆は、宗教や認識についてのあらゆる能力を失ってしまった。彼らの頭の中には政治しか、それも軌道をはずれ、狂乱し、われを忘れた政治しかない。というのは、それは認識、宗教心、知恵──要するにその実質からして人間精神の中心を占めるにふさわしい唯一のもの──に取って代わろうとする政治である。政治は人間から、孤独や内面性を奪ってしまう。それゆえ全面的政治主義の宣教は、人間を社会化するために使われる技術のうちの一つなのだ。
 誰かが私たちの政治上の立場を尋ねたり、あるいはいかにも現代風の無礼さで先走りし、私たちを一つの立場に押し込めようとするなら、私たちは答えるかわりに、その無礼者に対してこう問い返すべきである。君は人間、自然そして歴史を何と心得ているのか、社会、個人、集団、国家、習慣、法とは何なのか、と。政治などというものは、それらすべての見分けがつかなくなるように、大急ぎで灯を消そうとしているようなものなのだ。(pp.42-43)
 以上の基本的事実を知らないため、平和主義はあまりにも安易な仕事になってしまった。つまり戦争を無くすには、戦争をしないこと、あるいは少なくとも戦争が行なわれないよう努力することだと考えたのだ。戦争の中に、えてして人間同士の付き合いに現われる余計で病的な突起物だけしか見ていないので、それを摘出すれば充分であり、別にそれを何かと代える必要などないと考えたのだ。しかし戦争というとてつもない努力を回避するには、平和とは戦争より数段大きな努力、複雑きわまりない努力の体制、そして部分的には天才による一か八かの介入を必要とする体制であると理解して初めて可能なのだ。
 それ以外のことはまったくの誤りである。それ以外というのは、たとえば平和を、戦争が姿を消したあとに残った単なる空隙のように解釈することである。つまり戦争は人が行なうものであるが、平和もまた人がやらなければならないもの、作り上げなければならないもの、人間の全能力を総動員しなければならないものであることを無視しているのだ。(pp.336-337)

 ともあれ、事実ここ数年の間に、各民族は時々刻々、他民族に起こっていることについて大量かつ最新の情報を得ているが、それが実際にも自分たちが他の民族の中にいるとの幻想や、あるいは絶対的な即時性の中にいるとの幻想を作り出してしまった。別の言い方をすれば、世界の社会的生の実質的影響としては、世界が突然ちぢまり、小さくなった。諸民族は備えもないまま力学的により近いものとなったのだ。(p.363)
 一世紀前だったら、アメリカ合衆国の国民がギリシャで起こっていることについて意見を持つこと、そしてその意見が間違った情報をもとにしたものであっても許されたであろう。アメリカ政府が行動に移さないかぎり、その意見はギリシャの命運にとってなんの効果も及ぼさなかった。その当時、世界はそれほど小さくもなく、柔軟な「大人」であった。民族間の物理的な距離は非常に大きかったので、その距離を横断するとなると、見当違いの意見もその毒性を失ったのである。しかしここ数年の間、諸民族は力学的に見て極端なまでに近接した関係に入り、たとえば北米の大きな社会集団の意見がスペイン市民戦争に実際に、直接の意見として、つまり彼らの政府の意見としてではなく干渉している。(pp.367-368)
だから私は世界の新しい枠組みの中では、かつてはほとんど無害であった、他国に起こっていることについて軽々に意見することが、ときに正真正銘の侵略に変わってしまうと主張したい。(p.375)