昨日()の続きとして、展覧会の空間における系譜学の現れ方というようなことについて、すこし書いてみたい。
保坂さんは図録巻末のテキストで、東孝光《塔の家》(1966)について以下のように書かれている。

それが「塔」の形状をしていることもあって、その住宅は大都市に対峙する個人の小さな砦であると評価された。しかしどうだろう。現在それはもはや都市に屹立する塔には見えないではないか。同時代には《プーライエ》(鯨井勇、1973年)や《カラス城》(海老原鋭二、1972年)などの砦のような住宅はあったが、今もその可能性が受け継がれているとは言いがたい。

  • 保坂健二朗「日本の戦後の住宅の系譜学について」『日本の家 1945年以降の建築と暮らし』新建築社、2017年

しかし、例えば岡啓輔《蟻鱒鳶ル》(2005-)はどうだろうか(岡さんはリンク先の動画()で「東京にくさびをぶち込むんだ!そんな気持ちでやってます」と言っている)。おそらく今回の出展作品のなかで《塔の家》と最もよく響き合うのは《蟻鱒鳶ル》だと思うし、《蟻鱒鳶ル》と最もよく響き合うのも《塔の家》だと思う。別に自分の卓見を主張するつもりはなくて、これは一般的にごくごく妥当な見解だろう。
一方で、《蟻鱒鳶ル》は今回、石山修武《開拓者の家》(1986)、宮本佳明《「ゼンカイ」ハウス》(1997)とともに、「12. 脱市場経済」という系譜で括られている。それはそれで《蟻鱒鳶ル》がもつ重要な意味を捉えた系譜に違いない。けれども「脱市場経済」というのはどちらかと言うと観念的な枠組みだ。モノ同士の直接的な響き合いというより、両者を媒介するテキストがあってこそ成り立つ関係という気がする。つまり、もし《蟻鱒鳶ル》と《塔の家》が展覧会場で隣り合っていたなら、それぞれの外観写真を見ただけで2作になんらかの繋がり(広がり)が感じられるのに対し、《蟻鱒鳶ル》と例えば《開拓者の家》では、その思想的・人間的な繋がりの強さにもかかわらず、写真や図面や模型などのモノを見るだけでは繋がり(広がり)を感じにくいということになる。
ところで人は展覧会場に掲げられたテキストをどれだけしっかり読んでいるのだろうか。作品そっちのけで熱心にキャプションを読んでいる人も見かけるけれど、そもそも展覧会場のような場で壁面に記されたテキストは、人間の身体感覚的にも頭に入ってきづらいような気がする。そのテキストが長文かつ複雑で抽象性が高ければなおさらだ。やはりテキストは本というメディアと相性がいい。
さらに展覧会と本を比べてみると、概して展覧会はその全体性が弱いと言える(とりわけその展覧会のために作品が制作されたのではなく、様々な既存の作品を集めることで構成される展覧会は)。本のように全体を手に取って見渡すことはできず、体験者は展示室のなかを自分で歩いて、それぞれ個別に自律する作品と向かい合っていく。だから展覧会における全体というのは、あらかじめその全体があってそれが部分に細分化されるような全体ではなく、まず個々の作品があって、それらと向かい合う体験を断片として浮かび上がってくるような全体なのだと思う。
展覧会というメディアにおけるこうした体験の構造は、個々の作品同士の響き合いによって全体的なネットワークが生成される系譜学の構造とよく似ているように思える。だとすれば、どれだけテキストが共有されるか当てにできない展覧会の空間においては、隣り合う作品同士が連鎖していく系譜学の構成は、展示手法として有効だと言えるのではないだろうか。それは個々の作品の存在をヒエラルキー上位のテキストに従属させずにいて、なおかつその作品単体からはうかがい知れない文化的・社会的な作品の広がりを、観る人に体験的にもたらしうる。
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じつはそれほどしっかり展示を観ていないにもかかわらず(内覧会のときは人が多く時間も限られていて、十分に展示が観られる状況ではなかった)、思いのほかずいぶん長い感想を書いてしまった。それは内覧会のとき、塚本先生に感想(批評)を求められてうまく応えられなかったことがきっかけになっているのだけど、それとともに僕自身がこの展覧会のコンセプトに強く思考を触発させられたことにもよっている。オーソライズされた歴史を系譜学によって相対化するという試みは、『建築と日常』No.3-4()の「現在する歴史」特集の問題意識にも通じるし、新刊の『建築と日常の写真』()も、全体の構成は個々の作品(建築/写真)を連鎖させていく系譜学的思考によって成り立っていた(どちらも東京国立近代美術館のミュージアムショップで販売中)。だからそもそも僕のなかに、系譜学に共感するものがあったのだろう。
「住宅の系譜学」というコンセプトは今回の展覧会で強く打ち出されたけれど、その萌芽というかエッセンスは、2004年刊行の『現代住宅研究』(塚本由晴+西沢大良、INAX出版)にすでに見られるのだと、この文を書きながら気が付いた。下に引いた塚本先生による『現代住宅研究』の前書きは、この本のまさに系譜学的なあり方をよく表している。

ここではまず、「現代住宅」を500程度リストアップすることを目標に、批評の切り口から見た作品の組み合わせと、作品の組み合わせから見た批評の切り口を相互に検討し、リストを充実させていった。批評の切り口は、特別な知識を必要としない、日常的に生活のなかや住宅のなかにある事や物(これを以下、アイテムと呼ぶ)とした。こうしたアイテムの取り扱いに、各作品のあり方や精神が現われるように作品を並べ、それぞれに共通するところ、違うところを論じていった。つまり各評論は、20世紀後半の日本の住宅作品が集合的に行なった、住宅のアイテム一つひとつのスタディと言える。年代も作者も異なる住宅が、各アイテムを使った表現上の意図の開発や研究に、リレー式に参加したと想像するのもいいだろう。

この本は基本的にテキストと図面によって成り立っているし、『10+1』誌の連載をベースにしたそれなりに専門的で高度なものだから、展覧会というメディア、それも今回のように海外向けであったり一般向けであったりする場合に、内容をそのまま転用するようなことはできないだろう。しかしこうした系譜学的思考は、「学」としてジャンル化されるよりも前に、歴史家ではない一人の人間が、ある分野の作品に惹かれ、やがてその分野の多くの作品を知るなかで自然と生まれてくる、アマチュアリズムの思考でもあると思う。その意味で今回の展覧会では、そうして培われた生きた思考を、テキストとはまた違ったかたちで、多くの人に追体験させる可能性を示していたように思われる。さらに系譜学として作品間のネットワークを立ち上げる展示手法は、実物そのものを展示できない(しかし実物がなくても展示が成り立つ)建築展というものにとっての可能性でもあったかもしれない。(完)