昨日()書いた作品同士の響き合いという意味で、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」の13の系譜のうち、系譜学のコンセプトを最もよく体現しているのは「11. さまざまな軽さ」だと僕には思える。それぞれの作品同士にモノとしての直接的な関係性もうかがえるし、複数の時代の作品、複数の学派の作品が含まれているので、いま選ばれている6作品以外の作品への広がりも感じさせる。そして確かに「日本の家」の1つの性質であるとも思わせる。
「3. プロトタイプと大量生産」(9件)と「14. 家族を批評する」(10件)は、それほど独自性がある枠組みではないけれど、それぞれに含まれる作品数の多さも示しているように、十分な必然性と広がりがある。他の系譜はそれぞれ視点としての面白さはあるものの、概して作品数が少なかったり、時代が比較的限られていたりするので、「住宅のタイポロジーに時間軸を導入し、その変化を追うことによって、事物の相互関連のなかでなにが変わり、なにが変わらないかを浮かび上がらせる」(保坂さんのテキストからの孫引き。塚本由晴「建築におけるコモナリティ」『コモナリティーズ──ふるまいの生産』LIXIL出版、2014年)と言われるような系譜学としての印象は相対的に薄い。
つまり、昨日書いた「あらかじめある系譜を想定し、それに当てはまる作品をそこに分類していくというベクトル」ということも含めて、この展覧会ではコンセプトとして掲げられた系譜学と、実際の各系譜における作品の構成のあり方とにズレがあるのではないかと思う。それがなぜかは分からない。ただ、塚本先生と保坂さんの間にもなんとなく認識の違いはありそうだし、特にこの展覧会はローマおよびロンドンでの開催を想定して企画されたので、実現に向けてはそれぞれの土地柄や客層、ミュージアムおよびキュレーターの志向も踏まえる必要があっただろう。そのあたりの多元的な条件がコンセプトの純粋性を薄める方向に働いたという推察はできるかもしれない。
しかしコンセプトの純粋性とは一体なんだろうか。建築も同じだと思うけれど、制作者側のコンセプトが純粋に実現できればできるほどその制作物はよりよいものになる、とは限らない。基本的に展覧会の観客はよりよい作品をよりよい環境で観たいのであって、そのときキュレーターによって賢しげに練られたコンセプトはむしろ作品鑑賞の邪魔にさえなる場合がある。ところが今回の系譜学というコンセプトは、その学問的な意義とは別に、展覧会というメディアでの表現方法としても有効であるように思われた。(つづく)