『アイデア』402号「小さな本づくりがひらく──独立系出版社の営みと日本の出版流通の未来」特集の選書コーナーで、ツバメ出版流通の川人寧幸さんが『精選建築文集1 谷口吉郎・清家清・篠原一男』(出版長島)を紹介してくださった。力のこもった特集。
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昨日はその後、豪雨のなか移動して、高田馬場のAlt_Mediumで、qp個展「花の絵」(〜6/14)を観た。
- 前回 https://richeamateur.hatenablog.jp/entry/20220617/1655391600
- 前々回 https://richeamateur.hatenablog.jp/entry/20200619/1592492400
qpさんの作品に偶然性や一回性に基づく方向(一連の水彩画など)と、反復性や複製性に基づく方向(CGやセル画、装飾考案)の2つがあるとするなら、今回の作品は、過去2回の出展作と比べ、前者から後者に近づいていっている感じがする。
ものを並べる気持ち良さに身をまかせていると結果的にリズムが生まれ装飾性が生まれる pic.twitter.com/Z6IYczwju7
— qp (@akarusa) 2015年11月28日
今回も展覧会に合わせ、原寸掲載で再現性の高い作品集が出版されている(DOOKS、税込3,520円、500部限定)。一連の作品集が魅力的なのは、「実物の具体性がほどよく捨象され」(前回日記)るだけでなく、手に取って間近で観られるという書籍というものの親密さ、身体性にもよるのかもしれない。
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豪雨のなか、平河町のオフィスビル(設計=MMAAA、2023年竣工)を見学。上層と下層でボリュームを交差させたような格好。はたしてこれが都心のオフィスビルとして、経済性や機能性、敷地環境等の法的なことも含めた現実的な諸条件とどう折り合いが付けられているのか、という側面は僕の能力不足もあってよくわからないけど、そういうことを抜きにして見れば明快で爽やかな建築であった。
斜向かいにある渡邊建築事務所ビル(設計=渡邊洋治、1962年竣工)。
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最近通っているところからの眺め。
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昨日の横浜の写真。
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神奈川近代文学館「生誕120年 没後60年 小津安二郎展」を観た(〜5/28)。このまえ(4月9日)横浜を訪れたときに行けず、結局最終日になってしまった。
本人の書いた文章をあまり読んだことがないせいもあるだろうけど、小津安二郎のキャラクターがどうも僕のなかではっきりした像を結ばない。ジャンルを問わず、ある作者の作品が気になり好きになった後に、その作者の言葉を読み、「やっぱりこういうことを言う人だった」と、作品と作者が目に見えない回路で結ばれることは多い(佐藤伸治、中平卓馬、ジョン・カサヴェテス、服部一成…)。そのことは僕にとって作品体験の本質的な部分を示しているようにも思われる。しかし小津安二郎の作品は文句なく好きなのだけど、今回の展覧会のようなもので示される幼少時代からの人物像は、僕が小津の作品に抱くイメージとうまく重ならない。それがかえって不思議で興味を惹かれることのようにさえ感じられる。
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このまえ買った(4月10日)、富岡多恵子『回転木馬はとまらない』(中公文庫、1978年)からいくつか抜粋。
たいていのいいゲイジュツはひとにことばを与えないで奪いとるので、たとえばコルトレーンのレコードをきき終わると、だまってもう一度きくだけである。いいものはいいので、仕方がないからだまっているより他にない。どういいかはきくひとそれぞれで違うし、こういう風にもいいんだからこういう風にもきける、と説明したり、タマシイにどういう具合にふれてくるのかを批評したりするのはだれかがしてくれる。(「コルトレーンと義太夫」1968年)
詩とは何か、詩で何ができるか、よりも、コトバとは何か、コトバで何をするか、がいまのわれわれには先のはずである。[…]コトバで詩の他にいろいろのことができるであろう。この認識がはぶかれたところで行なわれた詩は、工芸品かコトバのラベルであり、支配と管理の体制のひとつの環境になるだけである。それは罐詰のラベルがゲイジュツであるという意味ではゲイジュツである。日常がコトバをつくるといったのは、コトバはいかなる状況の中でも与えられるものではなく、にんげんが精神にその状況をいれるために発するものだからである。だからもちろん、日常をなぞることでコトバはつくられない。(「環境としての芸術とコトバ」1968年)
わたしは、〈書く〉ということでしかごはんを食べて生きていけぬ、能のない人間であるから、植木屋さんとかタタミ屋さんとかがその仕事でごはんを食べるために覚えねばならなかったと同じようには、〈書く〉ことは多少覚えねばならなかった。だから、植木屋さんのズイヒツのとなりに、わたしのズイヒツがあれば、わたしが植木屋さんの仕事をしたら一目で素人であるとバレてしまうように、植木屋さんのズイヒツもそのようにバラシてしまうものが本来はなければならない。(「〈書く〉という行為」1972年)
今夏、葉山の神奈川県立近代美術館で「挑発関係=中平卓馬×森山大道」という展覧会があるらしい(7月15日〜9月24日)。中平卓馬(1938-2015)は富岡多惠子(1935-2023)の3歳下だけど、両者の態度にはなんとなく似たところを感じる。言葉でも写真でも、日常において誰もが作者になりうる状況をまえに「作家」はどうあるべきか、といった問題意識の切実さは、高度経済成長期以降に活動を始めた世代の作家に通じるものだろうか(あるいは時代や世代に原因を求めるまえに、両者に思想の共通性を見るべきか)。
建築は(幸か不幸か)言葉や写真のようにはアマチュアに開かれたものではないけれど(免許もいるしクライアントもいる)、「作家」はどうあるべきかという問題は、やはり同時代的にそれなりに共有していると思う。
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プライムビデオで、ザイダ・バリルート『TOVE/トーベ』(2020)を観た。ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの伝記的映画だけど、どこまで信用してよいものか。戦争や政治、芸術や創作、両親との関係などをおざなりにし、現代受けしそうな色恋の部分を特別に見せ物にしているのではないかという疑念。
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「死ぬ気でやれ」という言葉はあまりぴんとこない。どちらかというと「死なない気でやれ」というほうが学問や芸術にとっては本筋ではないかと思う。年をとって何歳になっても、自分には永遠の命があるつもりでそれに取り組むということ(人は案外簡単に死んでしまうだろう)。
「死ぬ気でやれ」より「命をかけてやれ」のほうがわかる。この時の「かける」は負けたら命を奪われるような「賭ける」ではなく、体重をかけるという時の「かける」というニュアンス。そういう意味では、死ぬ気でやっている人が命をかけてやっているとは限らない。
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オタール・イオセリアーニ『唯一、ゲオルギア』(1994)を下高井戸シネマで観た。全3部で246分。音楽や映画などの文化的側面と20世紀の壮絶な政治的側面を混在させて描くところはこの監督らしい。ただ、全体が主に既成の映像で構成されているためもあってか、劇映画のような強い作家性・作品性は感じられなかった。感じられるのは思想性だろう。このまえ書いた(4月13日)人間の普遍性/固有性の認識も、この思想性に根ざしているのだと思う。日本でノンシャラン(無頓着でのんきなさま)と形容されるようなイオセリアーニの作家性も、このドキュメンタリーが湛える怒りと拮抗するものであること。
下記、『汽車はふたたび故郷へ』(2012年4月9日)日本公開時のNOBODYによるイオセリアーニへのインタビュー。