qp個展「紙の上の音楽」をAlt_Mediumで観た(〜6/29)。2年前の「明るさ」展(2020年6月19日)から連続した内容。

今作において前面に出されたテーマは、絵における音楽の表現である。同じ形を並べることによって生成されるリズム。どのような色を、どのような比率で組み合わせるかで変化するハーモニー。全体像を顧みず、瞬間の描画にまかせて生み出されるインプロヴィゼーション。(展覧会概要より)

「絵における音楽の表現」とは具体的にどういうことだろうか。「音楽的な絵」といえばパウル・クレーだけど(たぶん)、音楽評論家でクレー論もある吉田秀和は、「クレーの絵が音楽的だなどというのは、音楽も絵画も、どっちもあまり信用してない人のいう場合が多いのではあるまいか」と書いている(「絵画・運動・時間──パウル・クレー展をみて」1961年[『吉田秀和全集 10』白水社、1975年])。もちろん作者自身が音楽のありようを思い浮かべながら絵を描くことは、それ自体なにも批判されるようなことではないだろう。しかし作品を観る側の人間が、絵画と音楽という本質的に異なるはずの芸術領域の体験を言葉のレベルで重ね合わせて語ることには慎重であるべきだと思う。リズミカルとかポリフォニックとかいうそれらしい言葉で、絵画固有の作品体験に封をしないようにしたい。
たとえば音楽におけるリズムやハーモニー、インプロヴィゼーションは、ある時間に沿って作品を順番どおりに鑑賞することで体験されるものだと言えるけれど、絵画には個々の作品が定めるそのような時間はない。小さい作品ならば一瞬で全体を体験できるし、思い思いの順番や速度で部分を観ていくこともできる。であれば絵画におけるリズムやハーモニー、インプロヴィゼーションは、言葉としては同じでも、音楽におけるそれらの現象とは根本的に異なるものではないか。あるいは言葉が同じなのだから、作品の(形式ではなく)体験としても、なにかしら通じるところはあるのだろうか(軽快なリズムの音楽を好む人は軽快なリズムの絵画を好む?)。建築もよく「凍れる音楽」みたく言われるけど、このあたりのジャンル間の相異や相似を注意深く認識することは重要に思える。

メモ1
視覚はどちらかというと瞬時にものを捉える感覚だから、ものをゆっくりと見るのは案外難しい。[…]絵を描くことはまさに「ゆっくり見る」ことを学ぶことであり、そして、「ゆっくり見る」視線に耐えられるだけの複雑さを画面の上に組織することだ。

メモ2
何かの機会に、好きな画家三人を挙げろ、と聞かれたことがあって、その票のひとつをパウル・クレーに投じたことがある。そのとき、一緒にそのアンケートに答えを出した何人かの建築家が、みんなその一票をクレーに入れていた。建築屋の票の多かったのは必ずしも偶然とは云えない。クレーの作品が、線描と淡彩で、建築製図に似ているせいもあろうが、それぐらいの理由ではなくて、もっと本質的なところで、建築家と似た発想方法をクレーがもっているからではないかと思う。あるいは、クレーの『造形思考』のプロセスが建築屋の感覚に合っているからかもしれない。

  • 清家清「創造ということ」『波』1973年3月号


これは会場で購入した作品集『紙の上の音楽』(DOOKS)。税込3,850円。作品53点がページごとに原寸で掲載されており、再現性が極めて高い。もともとの作品のサイズや質感が本というメディアと合うのだろう。一般に絵画の作品集やカタログは「実物の体験を思い出す(想像する)ための装置」みたいなところがあるけど、これは作品そのものとして体験できるというか、むしろ実物の具体性がほどよく捨象され、僕にとってはこちらのほうが作品がよく観える気すらする(それは展覧会場で直立して観るのに比べ、体勢も時間も自由に観ることができるせいもあるかもしれない)。