先日(3月30日)、丸善丸の内本店で購入した3冊のうち、伊藤亜紗『感性でよむ西洋美術』(NHK出版、2023年)を読了。各時代において抽象化された時代性(同時代の作品に通底する性質)を措定し、それを線的に連続させて(微妙に進歩史観的に)西洋美術史2500年を縦断するさまには、どちらかというと感性よりも知性の働きが強い印象を受ける。ところどころで観念の先行が見られる。たとえば「ジョットがルネサンスの先駆けになったとお話ししました。では、本格的なルネサンスになると、どのような作品が出てくるのでしょうか。」(p.34)と語られるとき、実際にまず「本格的なルネサンス」があり、その後に作品が出てくるのか、それともある作品群の出現・評価をもって「本格的なルネサンス」が成立するのか。下のような記述にもつい引っかかってしまう。

 私たちは、装飾を削いだ建築やiPhoneなど、シンプルでモダンなデザインと言えばアメリカ特有のものだと思いがちです。しかし、その美意識はバウハウスに由来していて、そのルーツにあるのは抽象画でした。抽象画は、現在の私たちの生活とも実は密接につながっているのです。(p.107)

はたして現実の世界はそれほどきれいに線が引けるものだろうか(たとえば建築におけるモダニズムのシンプルさのルーツは必ずしも抽象画に特定できるものではなく、むしろ西洋建築史の新古典主義からの流れや産業革命以降の技術的・経済的変革の影響のほうをより重要視すべきだと思う)。隣接する時代の作品同士の具体的・微視的な比較は、たしかに初学者に美術の視点や認識の枠組みを与えて意義がある。僕も読んでいてなるほどなと思う。ただ通史として、それらを観念的にひと繋がりにして歴史を描くのはどうだろう。
「バウハウスでは、家具、テキスタイル、生活用品などさまざまなものが生み出されました。これはモンドリアンの絵画をモチーフにした椅子です」(p.105)、そう記され、リートフェルトのレッド&ブルーチェアの写真が大きく掲げられている。この事実誤認は本書における線的な歴史観の脆弱さを示しているように思う。話のピースが一つ欠けると、ストーリー全体が瓦解してしまいかねない。