アートトレイスギャラリー「遠回りの作法──ミース・オン・ザ・グラウンド」(1月9日)のトークイベント「絵画の透明性・建築の透明性」の第2回。コーリン・ロウ&ロバート・スラツキーのテキスト「透明性──虚と実」(『マニエリスムと近代建築』伊東豊雄・松永安光訳、彰国社、1981年)を前提にした話で、第1回が絵画中心、第2回が建築中心という内容だった。展示とは直接関わらない独立したテーマという位置づけだったものの、根本的なところではかなり関わっている気がする。
「透明性──虚と実」は、まず「虚の透明性」と「実の透明性」という2種の透明性の概念が提示され、それを適用するかたちで絵画の例(セザンヌ、ブラック対ピカソ、レジェ対モホリ=ナギ等)、さらに建築の例(ル・コルビュジエ対グロピウス)が示されるという、段階的な構成になっている。しかしたぶん実際には、コルビュジエ推しであるロウがコルビュジエの建築の魅力を語るために全体が論理立てられたテキストなのだと思う。「実の透明性」(グロピウス)は最初から出来レース的に「虚の透明性」(ル・コルビュジエ)の引き立て役にされているという印象がある。けれども「実の透明性」とはそんなに単純でつまらないものなのか(建築において「実の透明性」を成り立たせるのはガラスという素材だけど、同じガラスでもたとえば空間をつなぐためのガラスと空間を隔てるためのガラスの二極があり、そこから多様な現象がもたらされるはずだ)。「虚の透明性」と「実の透明性」は(特に日本語だとまるで対義語のように聞こえるけど)、そもそも同じ次元で対比的に並べられるような概念なのか。
一般にガラス張りを特徴とする建築家としてまず挙げられるのは、グロピウスよりもミースであるように思える。たとえば「実の透明性」の例としてグロピウスではなくミースの建築を取り上げていたならどうだろう。そういえば今回の展示をするにあたり(ミースが設計した高層建築の地上面で起きていることを考えたとき)、ミースにおけるガラスという要素はどう捉えられていたのか。昔、atelier nishikataのおふたりと一緒に《代田の町家》を見学したとき、2階の廊下から主室を見下ろす嵌めごろしのガラス窓について、小野さんと議論になったことを思い出す。小野さんはそれをたぶん空間をつなぐガラスと捉えたのに対し、僕は空間を隔てるガラスだと感じていた。