しばしば引用してしまいたくなる香山先生の言葉。

私たちがたとえば、コルビュジエ的造形と言ったり、ミース的空間と言ったりする時、ほとんどの場合、誰もがそれは共通に理解されたとして、議論を先に進めますが、同じことを皆言っているのか、同じものを見ているのか、多くの場合全く不明であります。

  • 香山壽夫『建築意匠講義』東京大学出版会、1996年、p.236

これはまったくその通りと思うのだけど、だとすれば近年よく使われる「すごい建築」「カワイイ建築」「ヤバい建築」といった形容が、みな同じ価値基準によって同じものを指しているなどということは到底ありえない。ある人が「すごい」と言うものが、別の人にはとるに足らないものとしか感じられない場合も少なくないはずだ。
ものを観たときの直感は大切だろう。「すごい」「カワイイ」「ヤバい」などの言葉は、それこそ「コルビュジエ的造形」「ミース的空間」みたいな知的な言葉遣いやその背後にある専門的世界を批判し、直感をそのまますくいとる働きがある。しかしその一方で、生々しく多様なはずの直感を画一的な言葉にはめ込み、ものの良し悪しをひどく雑に既成事実化する働きも持っている。人には自分が見たり知ったりしたものを特権的に大きく言ってしまいたい欲望もあるから、それが排出される現代の情報環境では、言葉と直感とのズレ、言葉とものとのズレは大きくなり、言葉というものの信用や権威が損なわれることにもなる。
以上のようなことを書くと、「すごい」も「カワイイ」も「ヤバい」も褒めてるんだからいいじゃないか!いちいち批判するな!と嫌がられてしまいそうな気がするのだけど、「良いものをけなすよりも良くないものを褒めるほうが罪が重い気がする」ということを少し前に書いている(6月10日)。