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どだい、マネには風俗画というものは存在しないのであって、これがたとえばモネとの決定的な違いである。マネはけっして「物語らない」。[…]個人を写しているのでなく、《タイプ》を描いている[…]マネは人生と自然の偶発的なものを保存する《挿話》の画家でなくて、《典型》の画家なのである。

吉田秀和の「マネ頌」(1972年)を、そこで言及されている20点ほどの作品の画像をネットで確認しながら読んだ。初出時(『世界の名画』第5巻、中央公論社、1972年)はどうだったか知らないけど、手元の『吉田秀和全集 10』(白水社、1975年)では口絵に図版が2点載っているだけだから(うち1点はモノクロ)、こういうところにはITの恩恵を感じる。

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たしかにこの絵(1879年の『ラテュイユ親爺の店で』)の中には、すでにルノワールのすべてがあるといってよいだろう。もし1874年の小傑作『団扇と婦人』の中にマチスのすべてがあるといえるとしたら。

このルノワール/マチスの指摘がどこまで妥当なのか僕には察しがつかないけれど、「すべてがある」とまで言うのはなかなか大変なことだ。しかし吉田秀和がこう書くのなら、きっといい加減なことではないのだろうと思う(このような信頼のある人を権威と言うのではないか)。
この「Aの中にはすでにBがある」みたいな言い方は書き手にとっても読み手にとっても魅惑的で、そういえば昔、僕が内田百閒を好きになってから漱石を読んだとき、百閒にあるものはすでに漱石の中にあるのではないかと思ったことがあった。「Aの中にはすでにBがある」という言い方が面白く感じられるためには、単に先行するAが偉大であるというだけでなく、後進であるBが十分な個性を確立していないといけない。