手嶋悠貴『映画:フィッシュマンズ』(2021)を横浜ブルク13で観た。フィッシュマンズの映画というより、佐藤伸治を不在の中心としてテーマにした映画という印象。佐藤は「他人に任せる人」だったという言葉の一方に、晩年の楽曲は佐藤によるデモテープで(他のメンバーの創作を介さず)ほとんど完成されていたという言葉。その矛盾のなかで生きた佐藤伸治という人がよく感じられる映画だった。
関係者への長時間のインタヴューから過去映像も含めた膨大で緻密な編集まで、とても丁寧に作られているのだろう。パンフレットに「これは音楽映画ではない」という言葉があったけれど、それでよかったと僕は思う*1。へんに作家性を出して「映画」にしようとするわけでもなく、「映画」だの「音楽映画」だのといったジャンルの枠組みを先に立たせずに、対象と真摯に向き合い、それに即したニュートラルで素直なあり方。それはデビュー当初「レゲエの魂がない」と批判されたというフィッシュマンズらしいあり方と言えるかもしれない。
しかし佐藤伸治がいなくなってから現在に至るまでのフィッシュマンズをどう位置づけるかについては、若い監督の主体的な意志が垣間見えるような気もした。172分の映画では序盤で原田郁子とハナレグミが佐藤伸治の歌を歌うことの恐れ多さみたいなことを語り、終盤に茂木欣一が「佐藤伸治のいないフィッシュマンズは聴かない、という人もいて全然いい」ということを言っていた。それぞれのシーンは全体構成のなかでそれなりに意図的に配置されていると思うのだけど、それは佐藤伸治がいたフィッシュマンズとその後のフィッシュマンズを曖昧なまま連続させるのではなく、はっきり分節すべきだという意識によるのではないだろうか。
パンフレットに収録された座談(茂木欣一×原田郁子×ハナレグミ×UA)では、UAが「私なんか、てっきり郁子やタカシくんや私が歌うシーンも出てくるのかなって勝手に思ってたけど、いっさい出てきやしない(笑)」と言っている。あっけらかんとした言い方だけど、そういう言い方でなければ(あるいはUAでなければ)口にできないような、わりとシビアな事実ではないかと思う。たしかにそうしたシーンを多く入れて映画をつくる道すじもあっただろう。むしろ今、実際の人間関係のなかでフィッシュマンズの映画をつくろうとすれば、そういう方向になるのが自然の成り行きとさえ言えるかもしれない。でもこの映画はそれをしなかった。フィッシュマンズを今も続けている人たちにリスペクトを持ちながらも、へんに気を遣って空気に流されることなく、自分に見えてくる実像をシビアに捉える。そういう確固とした創作の態度には、「ちゃんとやる」というのが口癖だったという佐藤伸治も共感するのではないかと思った。関係者を一堂に集めて佐藤伸治やフィッシュマンズについて語ってもらうのではなく、あくまでひとりひとり個別に(数回にわたって)話を聞いたというのも、特定の状況に依存することなく、より深く個人に根ざした言葉を引き出し、より客観的に対象に迫ろうとしたからだろう。それが密でありながらも風通しのよい、この映画の基調になっていると思う。


*1:といって演奏シーンが少ないわけではない。ほどよいバランスで充実している。これはまさに映画館で観るべき映画だった。大きなスクリーンの効果というよりも、音の迫力と、公共的でありつつも個として没入できる空間性。