ある種の文章(批評や論考)を批判するときの「単なる感想文でしかない」という言葉にいつも引っかかってしまう。「感想」とはそんなに位の低いものなのか。ある事物について何かを「感じ」「想う」、その経験を固有の言葉にできたなら、それだけで相当の価値があるだろう*1。むしろ「感想」の土台にもとづかない文章がいかに多いか。そのことこそ問題だと思う。

私は、批評家に自分の心を曝けだせといっているのではない。そんなものは、包みかくしているのが礼儀であろう。だが、包むべき心のない文章をかいてみても仕方がない。いや、かくすもかくさぬもない。その心を造型する働きが文章というものなのではあるまいか。

  • 吉田秀和「『ラインの乙女たちの歌』──ある梅雨の午後に」1964年(『吉田秀和全集 10』白水社、1975年)

*1:「単なる感想文でしかない」と批判される文章がこういう意味での「感想」たりえているかどうかは定かではない。