私は、本の少ない家に育ったためだろうか、むやみと本のたくさんある部屋とか住まいには、肉体的に嫌悪を覚える。贅沢とまではゆかなくとも、ゆったりと場所をとってあったら、どうか知らない。しかし、日本の家屋の場合、たいていは、部屋中の壁が本でいっぱいだったり、その辺にごたごたと積み重ねてある図を見かける。そんな時、私には何だか、その部屋の主が、精神的にひどく貧寒とした人物に思えてくる。「ルンペン知識人」、もしこんな言葉があるなら、そんな感じである。金のない知識人が嫌いなのではない。質的な貧しさに鈍感で、そんなに知識ばかり求めて、どうするんだろう? と思ってしまうのである。

  • 吉田秀和「中原中也のこと」1962年(『吉田秀和全集 10』白水社、1975年)

昭和戦前、まだ十代だった吉田秀和(1913-2012)が中原中也(1907-37)に連れられて訪ねた小林秀雄(1902-83)の部屋に本が少なかったことを回想しての文。「本の少ないのが、ひどく私の気にいった」。僕もこの感覚はすこし分かる。本来の反知性主義とはこういうものではなかっただろうか(反知性-主義ではなく反-知性主義)。昨今の「論破」や「マウント」の流行は、知識や論理を絶対視する近代以来の知性主義の成れの果てという気がする。