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ある夜、ふいに自分は吉田秀和(1913-2012)の書くものが好きだったということを思い出し、ネットで適当に著作を見つくろって注文した(これ以外にも図書館でいくつか借りた)。吉田秀和の文章はもう11年近くも前、以下の一節をこのブログで引用しているけど(2010年6月8日)、この文はその数年後、『建築と日常』No.3-4の坂本先生へのインタヴューでも引くことになったのだった(そういえばもともと初めて吉田秀和の名前を意識したのは、坂本先生の1970年代半ばに書かれた文章で参照されていたのを読んだときだったかもしれない)。

私の考えでは、芸術というものは、ある時理論を学べば、あとは芸術家の個性にしたがって創作すればよいというものでもなければ、どだいそんなことは、できないものだと思う。芸術家は、理論を習うよりまえに、幼い時、もっと根本的な体験をしており、そのあとで、いつか、ある芸術作品に触発されて、芸術家の魂を目覚まされ、そこでそれを手本にとり、理論を学びながら、最初の試みにとりかかるというものだと思う。そうして、彼の成長とか円熟とかいうものは、根本的な体験につながる表現にだんだん迫ってゆくという順序を踏むのではないか。

  • 吉田秀和「ソロモンの歌」1966年(『ソロモンの歌・一本の木』講談社文芸文庫、2006年)

今、たまたまAmazonの『ソロモンの歌・一本の木』のページを見たら、自分がその本を2007/7/2に購入しているという情報が表示されていた。思ったよりも前だった。吉田秀和にはこんな文もある。

いってみれば、本には二種類ある。新しいことを知るため読むものと、「読書」の対象になるものと。若い時は、誰だって累積がたりないから、何だって読み、それが精神の糧になるけれど、ある年齢をすぎると、どんな本でも同じというわけにはいかなくなる。そうなってからのこととしていうと、読書というのは、同じ本を何度も読みかえすことを指すのであって、初めて読むのは読書のうちに入らないことがわかってくる。

  • 吉田秀和「ベートーヴェンの楽譜とセザンヌの絵」1984年(『物には決ったよさはなく……』読売新聞社、1999年)

残念ながら僕は、吉田秀和の本領であるクラシック音楽についての文章を十分に読むことはできない(グールドならばここ十数年で多少聴いてきたので、なんとか察しはつくという感じ)。しかしその他の美術評論や随筆も、おそらく氏にとって必ずしも余技と言われるべきものではないだろう。上のふたつの引用文にもうかがえると思うけれど、氏の活動は個々の自律した専門ジャンルによって純粋に区切られることがなく、人生において、日常において、底のところで確かにつながっている。

芸術は、私たちが毎日こうして暮している、その生活の中から生れてくるのですから、それだけをとりだして、ほかの目的のために役立たせようとしても、それは生活という大地に根ざして咲いている花を、切ってしまって花瓶にさして眺めるようなもので、長もちはしない。
芸術は人生にどう役立つか? 役立つも役立たないもない。芸術は人間の生きている、その生き方そのものの中に根をはっているもの、生きるということ自体の内容の一部にほかならないのです。だから芸術が人生にどう役立つか? ときくのは、人間の身体をみて、その手や足、あるいは心臓や肺臓について、何の役に立つのか? ときくようなものだと、私は思います。

  • 吉田秀和「芸術と人生」1980年(『響きと鏡』中公文庫、1990年)

僕が教養や常識といった保守的な概念に価値を見るようになって久しいけど(たとえば「谷口吉郎の教養と常識」2018年)、吉田秀和こそそれらを豊かに湛えて生きた書き手ではないかとあらためて思う。上の言葉もまさに常識的だ。しかし、当たり障りのない単なる紋切り型ではない。社会や政治から全面的に芸術を擁護するわけではなく、「生きるということ自体の内容の一部」ではないような「芸術」に対する批判もその前提として含んでいる。氏の文章を読んでいると、柔らかな文体のなかにそういう厳しさも感じられる。