以下、多木浩二が建築写真を撮っていた当時の建築界の写真認識の例として、書評の引用候補にしていた言葉(結局文字数が多くなりすぎて、ぜんぜん入らなかった)。どちらも『Commercial Photo Series 建築写真・表現と技法』(玄光社、1978年)より。書評では多木浩二の建築写真と対照的な言葉として位置づけるつもりでいたけれど、それぞれ今でも一理あると思う。

しかし、社会的に及ぼす影響を考えてみると、写真の方が現実の建物より良いというのは、やはり問題があると思います。

  • 前川國男「スポンターニティが息ずく生活空間を求めて」

つぎに建築写真のコピーライト、著作権の問題ですが、それが建築家にあるか写真家にあるかは、明らかにしておかなければならないことだと思います。まず本質的には建築家にあると私は思います。

  • 丹下健三「限られた時間と空間を切り取ることの難かしさ」

上記のうち、前川國男の発言は常識的に分かりやすいけれど、建築写真家の著作権を軽視するような丹下健三の発言に対して「今でも一理ある」と言ってしまうのは誤解を招くかもしれない(現在の日本では基本的に建築写真の著作権は撮影者にある)。もちろん、丹下健三の建築を撮影した平山忠治や石元泰博や村井修といった人たちの写真に著作権を認めたくないというわけではない。
僕が思うのは、たとえば極端な話、今日のSNS上で「代々木体育館やばい」「エモい」みたいな言葉に著作権が認められることはないのに、それと同レベル(?)の写真には、それが写真であるだけで著作権が認められるのはなんとなく変な気がする、みたいなこと。
また、一般に絵画の写真(複写)は画家のクレジットのみが表記され、撮影者の著作権は認められない(技術的な創意工夫もあるはずなのに)。それが建築写真になると建築家の著作権は一様に認められなくなり撮影者の著作権だけが絶対的にある、というのはなんとなく変な気がする、みたいなこと。
法律としての著作権は社会的に妥当なところで便宜的に定められているのだろうから、べつにその是非を問題にするようなつもりはない。ただ、建築写真の著作権はこういう矛盾も含みながら便宜的に成り立っているものだということは、少なくともそれに仕事として関わるなら認識しておいたほうがいい気がする。
ちなみに同じ『Commercial Photo Series 建築写真・表現と技法』で多木浩二は「日本の建築写真家では平山忠治さんの存在が重要でしょう」と言っているけれど、その平山忠治の本を読むと、丹下健三は建築写真の著作権に対する意識が薄く、「何度もけんかになった」と書かれている。またその反対に、写真家に配慮する「前川さんはさすが」とも書かれている(『眼の力・平山忠治』建築家会館、1996年、pp.50-51)。