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都知事選はいろいろと残念な結果だった。やはり大問題は小池百合子とそれをめぐるメディアや社会、人間の心性ということだろうけど、その脇でこぼれ落ちてしまいそうなことをすこしだけメモしておく。こういう実感はつい忘れがちで、2014年のときも個人的にブログに書いておいてよかった(2014年2月7日)。
山本太郎は政治家としてかなり期待しているし、これまでの実績もすでに大きいと思うけれど、カウンターやトリックスターであることを超えて力を得ようとするときの態度には危ういものがある気がした。『大衆の反逆』(1930)で、オルテガは次のように書いている。

以前だったら運命に対して謙虚な感謝の念を起こさせただろう幸運も、感謝するどころか当然要求できる権利に変わってしまった。

  • 佐々木孝訳、岩波文庫、2020年、p.126

この「当然要求できる権利」は、今回の都知事選における山本太郎の「あなたはすでに頑張りすぎている。本当に頑張るべきは政治だ!」といった言葉に顕著に見て取れると思う。しかしこれは庶民のルサンチマンを煽り、高揚させるような言葉として問題を感じる。つまり、「あなた」とは誰なのか。頑張っている人もいれば、頑張っていない人や頑張れない人がいるのも明白ではないのか。多様であるはずの人々を「大衆」として一様に括ってしまうのなら、結果的に同じ政策を主張するにしても、「そんなに頑張っていない人も困窮していれば助けます」と言ってくれたほうが無理がない。山本太郎については、政治的目的を達成するためになぜ宇都宮健児では駄目なのかも結局理解できなかった。
小野泰輔と桜井誠の票が想像より伸びた。小野泰輔は広く受け入れられたようだけど、どんな信念があれ、原発や水道民営化を推進する意志を示し、こういうアンケートの回答(https://www.tbsradio.jp/496423#ono)をしている時点で、維新の一典型である「若く知的そうでシュッとした見た目の男性」という枠に入れておくほかない。
桜井誠は今の大多数の政治家ができていない「自分の言葉で信念を力強く語る」ことができる(力強さは山本太郎より上ではないか)。だから活動や政策の全貌が明らかでないまま一部の発言だけが流通すれば、そこに惹かれる人は「普通の人」にもそれなりに出てくると思う。ただ、逆にいうと「自分が思っていないこと」も語らなければならないのが政治だろうから、そこがなければ広がりは限定される気がする(その意味で、外見はより普通であり、こだわりなくなんでもできてしまう維新のほうが怖い)。
立花孝志は票が伸びなくてよかった。こだわりのない人たちは、目先の効果が得られない場所からはさっさと離れていくと思う。