写真関連の原稿を書いている勢いで、3年前(2017年10月7日)に買ったままにしてあったウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボットの『自然の鉛筆』(編・訳=青山勝、赤々舎、2016年)を読んでみた。世界初とされる写真集で、1844年から46年にかけて分冊で刊行されている。撮影した写真を自ら解説する短文が写真に併記してあり、これぞまさに大辻清司的な「文章と写真との関係」の原点のように感じられる。

さらに頻繁に起こるのは──これが写真の魅力の一つでもあるのだが──撮影者自身が、写真を吟味しているときになって、場合によってはずいぶん後になってはじめて、撮影時にはまったく頭になかった数多くの事物がそこに描き出されているのを発見するということである。建物に銘文や日付が刻まれていたり、その壁にまったく関係ない看板を発見したりすることもある。また遠方の時計の文字盤が写っていて、そしてその文字盤──無意識のうちに記録された──の上に、当の図が撮影された時刻が読み取れることもある。(p.47)

この『自然の鉛筆』の日本語版には、もともとのトルボットの写真集の内容だけでなく、それと同じくらいのページ数で、何人かの執筆者が参加した「自然・写真・芸術──『自然の鉛筆』考」というパートが付加されている。なかには『自然の鉛筆』とあまり関係ないように思える論考もあるのだけど、直接的に『自然の鉛筆』を論じているわけではなくても、この写真集がそれこそ写真の原点に近い位置にあるので、その反響の一つとして、同じ1冊の本を構成することができるのだろう。
そのうち金井直「写真と彫刻 あるいは互恵性」は、建築と写真の関係を考える上でも興味深い。一般に建築の文脈で写真が語られるとき、よくニエプスの《ル・グラの窓からの眺め》(1827)が示されたりして、「写真はその誕生の時から建築と深い関係にあった」などと言われることがあるけれど(『自然の鉛筆』にももちろん建築の写真はある)、この論考では「写真と彫刻の類縁性には、なみなみならぬものがある」、「彫刻と写真は実に密接な関係を育んできたのであった」として、写真との親密なポジションが彫刻に取って代わられていて面白い。もちろん彫刻と建築には形式的な類似もあるわけだから、この論考は建築と写真との関係を考えさせられるものとしても読めるし*1、また建築と彫刻との関係を考えさせられるものとしても読むことができる。たとえば以下のような指摘において。

言い換えれば──言うまでもないが──彫刻には概して二つの種類が存在するのである。ひとつは有効な、あるいは理想的な単一の視角を要求するもの。もうひとつは、複数・多数の視点を許容・内包するもの。

なるほど、彫刻における光・視点は、制作“後”の受容局面に大きく関わる問題であり、一方、写真におけるそれは、撮影“前”の試みである。しかし、熟達の芸術家であれば、常にその、それぞれの“前”“後”を考慮するはずである。彫刻と写真は、ともに光と角度についての深い理解と判断を要求するメチエなのだ。

ひとまずの括りとして、両者に共通する解釈上の「空所」の多さも指摘しておきたい。彫刻・写真ともに、構造的に、観者の介入に開かれているという点だ。彫刻について言えば、ボードレールが「専制的な」絵画に比して「退屈」とみなした特性である。彫刻のほうが、より“民主的”なのである。写真については、撮影からプリントまでのプロセスに内在する非人称性(光学的・化学的な操作)を思いつつ、加えてロラン・バルトの言うプンクトゥムを想起すればよかろう。撮影者本人の眼差しや意図(ストゥディム[ママ]の守備範囲)からすり抜けるものを見いだし反応する、観者の自由である。

とりあえず、彫刻は建築よりも視覚への依存度が強いという意味で、同じく視覚への依存度が強い写真との類縁性が高いと言えるかもしれない。また建築は彫刻よりも作品としての自律性・完結性が弱く、外部世界の浸透度が強いという意味で、同じく外部世界の浸透度が強い写真との類縁性が高いと言えるかもしれない。

*1:建築の分野でこのように写真との形式的な関係性を考察した文章はあるだろうか。多木浩二の「建築と写真」(『建築と写真の現在 vol.1』TNプローブ/大林組、2007年)ともすこし違う。海外ではあるのかもしれないが。