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昨日もう1冊届いた写真関係の雑誌。別冊『多木浩二と建築』()の阿野太一さんのテキストでも挙げられていた「『プロヴォーク』の時代」特集の『デジャ=ヴュ』14号(1993年)。
昨日の大辻清司と同様、『プロヴォーク』(1968〜1969年)でも写真と言葉の関係が問題にされていただろうけど、両者ともキャプションの言葉に従属(隷属?)するような写真のあり方には当然否定的だったとしても、「ことばのない思考」(多木浩二)、「来たるべき言葉のために」(中平卓馬)といったふうに、言葉に先立って存在する自律的な写真のあり方を想定した『プロヴォーク』(上記2名)に対し、大辻清司は言葉との関係のなかで写真をより他律的に捉えていたという点で、両者の差異を見いだせるかもしれない。