ある出来事の全体像や文脈(それがどんなものであるにせよ)を捨象して一部分を晒し、それを見た人が元の出来事を知らないまま思い思いのイメージに基づいて非難したり嘲笑したり憂さを晴らしたり不快感を告白したりする振る舞いが無限定に連鎖し拡散していく構図がよくない。https://t.co/Nbyq4Ql71K
— 個人雑誌『建築と日常』 (@richeamateur) July 10, 2020
上のように、たまたま目にしたツイート(→)にコメントを加えて「引用ツイート」をしたことで、元のツイートの発信者にブロックされてしまったらしい(その人は自身のnoteで「先手のブロックをする」ということを書いている)。こうした反応が発生していくことまで含めて、やはり現代的な現象としてよくないなと思う。
下の画像が「ひどい性差別発言」と非難されていた「男性編集者」の去年のツイート。この編集者とは特に面識があるわけではないのだけど、当時、このツイートを含む一連のやりとりが問題になっているのがなんとなく気になっていて、それで今回のツイートにもつい反応してしまったのだった。
僕が思うのは、仮に昨日のツイートがこの最後のクッキーの一文だけを抜き出すのではなく、全文を参照していたなら、ツイートを受け入れた何千何万という人たちのうち数%の人は、「ん、待てよ」と、反射的な判断や発言を保留にしたかもしれない、みたいなこと。
また昨日のツイートでは、ここ数日話題を集めているポテサラ発言(→)と去年のクッキー発言を同質のものとして一括りにしているけれど、現実に各々の発言が向けられた当事者にしてみたら、「私の体験はあの人の体験とは違うはずだけど…」と、第三者に一緒くたにされることが腑に落ちない可能性もあるかもしれない、みたいなこと。
去年のやりとりを見るかぎり、少なくとも男性編集者は「女性差別をしているから女性編集者を罵倒した」のではないと思う。きっと彼は相手が男性でも罵倒しただろうし、そのときの言葉が女性に対してよりも穏当になるかどうかは定かでない(より痛烈になることも考えられるし、男性にも同じクッキー発言をする可能性も否定しきれない)。一方、最近のポテサラ発言は、相手が女性でなければ起こりえない。クッキー発言を擁護するわけではなく、それ自体「ひどい性差別発言」なのだとしても、この両者に差異を認めることは、社会構造としての性差別の問題を考える上でもむしろ有意義なのではないかと思う。