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吉田健一の小説『金沢』(河出書房新社、1973年)で描かれる主人公の家も犀川越しに金沢の街を望めるようなので、あるいは谷口吉郎が暮らした家(現在の金沢建築館)と近い位置が想定されているのかもしれない。吉田健一はいわゆる近代的な建築をあまり好ましく思っていなかっただろうけど、それが人々の生活にとって必要なものならば、風景として許容する大らかさがあった。

その木の間から見えたり木よりも高く建ったりしている建物の凡てが昔からの木造ではなくて放送用の塔を付けた洋風の建物もその中にはあったが、それが前からそこにあったものと眼が納得して犀川とその対岸の景色が一つのものに受け取れるのは金沢に住むものがそういう建物も必要になったので建ててそれを使う気持もそれを見る眼も自分達が住んでいる家に対する時と同じである為に違いなかった。大体が人間が自然の中に自分が住むものを作ってその住処と廻りの自然が一つになるのはその両方を自分がいる場所と見ているからで用もないのに最新式というような観念に取り憑かれて何か作れば自然は顔を背ける。

  • 吉田健一『金沢』河出書房新社、1973年、pp.39-40

[…]一つの町が変らずに一つの場所でその町であるのは伝統とか何とかいうことに説明を求めなくてもそこに住む人間の生活の問題であり、これは逆に伝統とか何とかいうのはその場所に住んでいる人間の生活に求めなければならないということである。或る町が落ち着いて人間が住めるものになるまでにどれ位の変化と努力と時間の経過が必要であるかは落ち着いてしまえばその変化や努力は忘れられるのであるから確かなことは言えない。併しそこにその町の金沢ならば金沢の歴史があり、それを知ることでその歴史が生きたものになる。

  • 吉田健一『金沢』河出書房新社、1973年、pp.6-7

谷口吉郎も建築家の作品と街の建物とを断絶させることなく、それらを人々の生活の地平で統合的に考えていたところは吉田健一と共通すると思う。ふたりにとって現在の金沢の街並みが許容できるものなのかどうかは分からないけれども。

だが、そんな建築も、それは建築家のみによつては實現されない。それには「設計者」のほかに、その居住者である「建築主」と、それを工事する「施工者」とを必要とする。この點で、建築は、繪や彫刻とも異なる。繪や彫刻ならば、作者が、ひとり、アトリエの中で精進すれば、とにかく未完成であつても、作品は形成されていくが、建築はそうはいかない。紙の上に描かれた製圖は、設計圖に過ぎなく、決して建築物とはいい得ない。
故に、建築の造形は、建築家のほかに、それを建てる人人の参加を必要とする。
從つて、人間の生活環境が美しくなるためには、明るい意匠心を持つた多くの建築家とともに、建築を愛する人人の参加協力を必要とせねばならぬ。美しい郷土は、多くの人人が心を合せて作つた協同作品である。
そんな意味で、私のつたない文章が、一人でも「建築を愛する人」を増すことができれば、それこそ幸である。この愛情によつて、環境や郷土の美しい建設が少しでも増進すれば、それこそ望外の喜びと言わねばならぬ。

  • 谷口吉郎『清らかな意匠』朝日新聞社、1948年、pp.284-285(あとがき)