同日公開の『寝ても覚めても』(9月27日)と『きみの鳥はうたえる』(10月1日)は、僕のなかでずいぶん対照的な評価になってしまった。しかしどちらも小説の映画化だけど、『寝ても覚めても』は原作を読んでいるのに対し、『きみの鳥はうたえる』は読んでいない。このことは作品の評価に影響しているだろうか。もちろん影響していないわけはないだろうけど、仮にそれぞれの原作を読んでいなかったり読んでいたりしても、おそらく映画の印象はそれほど決定的には変わらなかったのではないかと自分では思っている。『寝ても覚めても』はもし直前に原作を読み返していなければ「映画そのもの」をもっと楽しめたという可能性はあるとしても、結果として小説版の色眼鏡をかけることで映画版を純粋に観ることができなくなってしまったというより、その眼鏡は透明かつ度入りで、映画版をより鮮明に見せる働きをしたというほうが近いような気がする。
『建築と日常』No.5()では柳宗悦を引きつつ、先入観を排して作品を直に観ること(直観)に重要な意味を見た。しかしこの辺がややこしいところだと思うのだけど、自分の経験や主観にこだわらないことで作品がより確かに捉えられるということがある一方で、ある固有の経験をその人が持っているからこそ、その作品の本質に近づける、あるいはその作品が真価を発揮してその人に響いてくる、ということも確かにあるはずだ。
僕にとっての『寝ても覚めても』の原作を読んだ経験、あるいはこれまで柴崎さんの作品を読んできた経験がそのような経験と言えるかどうかは分からないけれど、例えば『寝ても覚めても』を観るとき、若いころ熱烈な恋愛をしたことがある人はその経験に基づいて映画を観るだろうし、関西出身で関西弁で話す人も、大地震で被災した人も、家族がALSに罹った人も、それぞれの経験から離れて作品と向き合うことはできないだろう。
それらの経験は時に作品に対して偏った態度をとらせもする。極端に言うと、例えば震災のことが描かれていればどんな作品でも価値を認める、あるいは逆にどんな作品でも拒絶してしまう、そういう態度はたとえその人にとっては十分に必然性があることだったとしても、やはり少なくともそれぞれの作品を直に観ているとは言えない。ただその一方で、震災の経験がその人にあるからこそ、その作品の表現の深さに触れられる、あるいは逆にその作品の欺瞞を見抜ける、そういう場合もあるに違いない。それぞれの人における固有の経験が、一般的・客観的な作品評価とは別次元のまなざしで、その作品の真実を垣間見させる。これは裏を返すと、芸術作品こそ個別の人間の経験に開かれ、様々な経験に多元的に対応するものだと言えるかもしれない(それは例えばこの作品を観て被災者はどう思うかとかALS患者はどう思うかとかをいちいち想定して作品を作らなければならないということではなく、作品の深みにおいて人間の多様な固有の経験を受け止めるというようなこと)。
以下リンク先、古谷利裕さんが『寝ても覚めても』を観た感想は、(古谷さんが以前から柴崎さんの読者であることも含めて)僕の感想と比較的近いと思う。