『建築と日常』No.5(特集:平凡建築)では小坂秀雄による吉田鐵郎についての文を引いて、下のように書いた。

他の吉田の評伝が吉田の作品歴における「変化」(表現主義からモダニズムへ)を特筆しがちであるのに対し、小坂は「変化のなさ」に意味を見ている。これは吉田と仕事をともにした人間による、吉田の本質を突く卓見ではないかと思う。

これと似たようなことを、吉田鐵郎の10歳年下である谷口吉郎についても言えそうな気がする。谷口はおそらく吉田以上に「変化」(モダニズムから伝統表現へ)が特筆される建築家だろう。それは単に建築のスタイルだけの問題ではなく、革新から保守へ、左から右へという、思想的な問題としても捉えられているように思う。例えば下の八束さんの文のように。

後年の谷口はむしろ伝統主義者であり、随筆の名手として数多くのテクストをものしているといっても、理論家というイメージからは遠い。この意味で谷口のケースはいわゆる「転向」の最も典型的な例である。

  • 八束はじめ「転向の射程」『建築文化』2000年1月号

ただ、僕自身は今回ある程度谷口の文章を読んでみて、少なくとも「転向」と言えるほどの決定的な変化は谷口になかったような気がする。転向というのは一つのイズムからそれと対照的な別のイズムに(劇的に)変化することを指すのだろうけど、そもそも谷口には特定のイズムなど元からなかったのではないだろうか。むしろ確かな教養と常識に基づいて、一貫してイズムに囚われることを拒否していたようにさえ思われる。だからこそ若干25歳で、「建築は口じゃないのです。文句を幾ら並べたって、建築は決して築き上がりません。断じて建築は言廻しの捻出物ではありません」(「建築は口ではない」『建築思潮』1929年)と書けたのだろうし、いわゆる〈概念としての建築〉にこだわらずに、建築が生み出されるときの個人ないし社会の熱意や、建築が生きられてからの匂いみたいなものも敏感に感じ取り、そこに価値を見ることができたのだと思う。

 このように、明治維新に建てられた日本人の西洋館[擬洋風建築]は、今から見れば、滑稽な漫画のような建築だったということができる。しかし、その設計者の胸には、きっと烈々たる気概のあったことであろう。当時の文明開化の新しい思想に燃え、外国の建築にも負けない立派な洋風建築をつくろうとして、こんな西洋館をつくりあげた日本の棟梁や大工の強い設計力に、むしろ私は心をうたれる。

  • 谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』中公文庫、2015年、p.114

 何の匂いかわからなかったが、この家の建物にしみこんでいる古い匂いにちがいない。この建物に永らく住んでいる人々の、いろいろな生活から発散した匂いが、壁や天井や床に、しみこんでいるのだろう。今ここに住んでいる人たちのまだ若かった頃や、あるいはもう亡くなってしまった人たちの生活などがまざり合って、煉瓦の壁の中に、「しみ」のように、にじみ込んでいるのかもしれない。
 それがアパートの体臭のように、この建物にこびりついているのだろう。その匂いの中には、この建物の中におこった華やかな思い出も、悲しい思い出も、いっしょになって隠されていることだろう。それが異国人である私の嗅覚に特に鋭敏に感じられた。
 こんな特有な匂いというものは、家ばかりでなく、街にも、国にもあるのでなかろうか。港にだってあった。ドイツへ来る途中にも、船が寄港する港々には、それぞれの匂いがあって、そこの風景がかわっているように港々の匂いにも、それぞれ個性の如きものが潜んでいるように思えた。

  • 谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』中公文庫、2015年、pp.225-226

谷口は特定の観念的な枠組みに囚われず、日常のなかでトータルに建築の存在を捉えていた。その現実に向き合う柔軟な姿勢が、例えば一般的な建築家の仕事の領域を超えるような、数多くの墓碑・記念碑の設計や、明治村の設立などの活動にもつながっているのだと思う。