谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』(中公文庫、2015年)の書評、3000字という条件はなかなか厳しくて、引用したいと思っていた文も入りきらなかった。下のは1935年に完成した自邸(いわゆる白い箱型のモダニズム建築)の解説文。竣工時、谷口は30歳。若い頃の自邸というと、性能的に多少無理をしてでも斬新な作品で世に訴えるというのが戦後の常套にもなっているけれど、谷口は設計の革新性や実験性の意義を認めつつも、あくまで日常性を踏まえた建築の公共的なあり方を求めている。それは自らのオリジナリティを主張するというより、他の人に真似されてもいい、一般の模範となるようなデザインを目指しているとも言えるかもしれない。

 自宅を建てる時には、何か革新的な企劃を、存分に、のびのびと実現してみたいと、かねてから思いつめてはいたものの、さて当面してみると、予備知識の貧困はもとよりだが、毎度のことながら、第一に木造の壁体構造に確とした基準を持ち合せていない日本建築界の現情に、極めて痛切な心もとなさを感じた。
[…]
 実際、乾式構造の提言も、地道に考えれば、それはあまりに建築家の「理論倒れ」に堕した感が深い。名称の言辞だけで、その意味を解釈して、論争の用具だけに止めたり、或いは、その意義をただ将来の発展のみに俟つというがごとき評論家的態度で、甚だ空漠に扱い去られている始末で頓挫しているようでは、全く「乾式論議」に過ぎなかった。
 それよりも、在来の乾式構造の手法を実行した建築主に、往々後悔を洩らすものがあったり、甚だしきに至ってはその外装を間もなく鉄網コンクリート式にひそかに改造してしまうものがあることを聞くがごとき、更に施工者が頻繁な修理のために苦情を訴うるがごとき事実などあるのは、乾式構造を健全に成長させるために十分吟味されねばならない資料だのに、不問視されているのはどうしたことだろうか。建築の専門雑誌にしたところで、美々しく印刷された竣工御披露写真だけの陳列に終ってしまって、一向に、指導的問題を研究的に取り扱おうとする気概すら見えないのは、その雑誌の名称にも恥しいことであってまたどうしたことだろうか。
[…]
 お談義が甚だ長びいてしまったが、自宅の壁体構造は従来のありふれた板羽目の採用に過ぎない。しかし、板羽目は、日本の木造家屋が長い経験によって得た当然の帰結であって、それを再認識する意味において、私はその陳腐さにも拘らず採用を志したのである。たまさか、新様式の流行的模索のためにこの板羽目の外装が陳腐の故に、一時新建築の相貌から消え失せていたことは怖るべきことであった。ただ陳腐さによって、その当然の存在理由が押し退けられてしまうことは何によらず愧ずべきことに違いない。
[…]
 モダン建築の素人的目じるしとして窓ガラス面積の素晴らしく大きいことが言いはやされているが、建築家の中にも、ただそれを無批判に押し進めて流行的誇示にまで堕しているのは相戒むべきことである。太陽光線をただ可視光線のみと局限して紫外線、熱線、その他の諸種の輻射線の含まれていることを忘れ、ただ徒に明るいのみを合理的と考えた鵜呑みの結果、むやみと窓ガラスを多くし、そのために反って健康紫外線の照射を遮断し、放恣的な熱線の射入と放熱とによって、夏季はいやが上にも暑く、冬季にはいやが上にも寒いという、言語道断な建築気候を助成しながら、新興建築家顔をした設計者が合理的言辞を弄しているなどは、全く漫画建築といいたい。

外壁の板羽目のくだりは、『建築と日常』No.5(特集:平凡建築)での堀部さんの発言を思い起こさせる。

 木造住宅の外壁は色んな環境ごとの条件を考慮する必要がありますが、これもやはりいちばん良いのは板張りだというのが今の認識なんです。一つは木造住宅というのは動きますから、その動きに追従できるということ。それからコーキングに頼らなくてもいいということ。それと取り替えが楽ということですね。例えば三〇年経って傷んだ外壁を取り替えるときにも在庫がなくなっているということはない。そういう機能的な理由がまずはあります。それから情緒的なところですね。石油化学系の材料だと劣化はしても風化はしないので、やはり建築を時間のなかで考えたいということ。法律も数年前から規制が緩和されてきているので、使いやすくはなっています。
 一般の人たちは今、住宅の外壁に木を使うという認識自体がまずありません。板張りなんていちばん粗末じゃないかとか、性能が悪いんじゃないかとか、そういう先入観で、現代では使えない昔のものだと思ってしまっているところがある。その先入観を払拭したいという思いがあるので、〈fca〉が住宅展示場のようなところに建つことで、なんらかの好影響があればいいなと思います。