下記、『谷口吉郎著作集 第三巻 建築随想』(淡交社、1981年)より。コンドル設計の鹿鳴館(1883年竣工)が1940年に人知れず取り壊されたとき、谷口はそれを惜しむ文章を新聞に寄稿している(「明治の愛惜」『東京日日新聞』1940年11月8日)。戦時中や戦後すぐの復興期に、こうして過去を顧みる姿勢が建築の設計者から示されるというのは珍しいことだったかもしれない。二笑亭みたいなものへの関心にしても、谷口には意外と建築家のプロフェッションからはみ出すようなところがある。

 もとより私有物であるから、その建物がどんな処分を受けようが、それは所有者の勝手でいいはずだった。更に当時は、日本が東亜の盟主となろうとして、国粋主義の強かった時代であったから、鹿鳴館のごときは非国民的建築であったかもしれない。ことに外人の設計した建物は、日本建築でなかったかもしれない。
 しかし、もし外人の設計したものが、日本建築でないならば、「法隆寺」も日本建築でないかもしれない。あの伽藍を築きあげた工人は帰化人であったろう。金堂内の仏像を作った者はもとより、瓦を焼いた者も帰化人であったといわれている。しかし法隆寺は日本の最高の宝であり、私たちは、それを世界に誇っている。それでいいわけである。
 それならば、鹿鳴館も明治時代の建築であり、日本の建築である。ただ時代が新しく、市井の建物であるため、価値の程度は違うかもしれない。しかし、「明治」という時代が、今後の歴史において、一層その歴史的意義を増せば増すほど、鹿鳴館の建築的意義も一層高くなってくることは必定である。しかも、その建物は「明治」の新しい発展とは、切っても切れない血縁にあった。
 その建築が、惜しくも、打ちこわされてしまったのであった。思慮のない行為が、歴史的建築をむざんにこわした。しかも世人の多くは、その破壊に気をとめず、世間的反響もなかった。従って、鹿鳴館は、いつの間にか破壊され、永久に消え去っていった。