先日(7月23日明治神宮で撮影した写真。明治天皇を祀る神社だからだろう、「五箇條の御誓文」が掲示されていた。伝統的な文章の格式に惑わされている面もあるかもしれないが、あらためて読んでみると(→Wikipedia)、国のトップが国政の根幹に据える文として、やはりそれなりの志を感じさせる。今の政治の言葉とは大違いだ。おそらく戦後民主主義の立場からすれば「大に皇基を振起すべし」といったところは看過できないのだろうけど、仮にそこを否定するなら、過去の歴史上のあらゆる名君(日本に限らず)の存在も否定することになるような気がする。法律の文章も、単に理屈だけでなく、それがもつ固有の文体も含めて判断するという態度はありえるのかもしれない。福田恆存は戦後の日本国憲法について、下のように述べている。

 先に「蛇足までに」と申しましたが、現行憲法に権威が無い原因の一つは、その悪文にあります。悪文といふよりは、死文と言ふべく、そこに起草者の、いや飜訳者の心も表情も感じられない。吾々が外国の作品を飜訳する時、それがたとへ拙訳であらうが、誤訳があらうが、これよりは遥かに実意の籠もつた態度を以て行ひます。といふのは、それを飜訳しようと思ふからには、その前に原文に対する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする慾望があるからです。それがこの当用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下ります。良く悪口を言はれる軍人勅諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。前文ばかりではない、当用憲法の各条項はすべて同様の死文の堆積です。こんなものを信じたり、有り難がつたりする人は、左右を問はず信じる気になれません。これを孫子の代まで残す事によつて、彼等の前に吾々の恥を曝すか、或はこれによつて彼等の文化感覚や道徳意識を低下させるか、さういふ愚を犯すよりは、目的はそれぞれ異るにせよ、一日も早くこれを無効とし、廃棄する事にしようではありませんか。そしてそれまでに、それこそ憲法調査会あたりで欽定憲法改定案を数年掛りで作製し、更に数年に亙つて国民の意見を聴き、その後で最終的決定を行ふといふのが最善の策であります。憲法学上の合法性だの手続だの、詰らぬ形式に拘はる必要は無い、今の当用憲法がその点、頗る出たらめな方法で罷り出て来たものなのですから。

  • 福田恆存「当用憲法論」『潮』1965年8月号(出典=福田恆存『国家とは何か』文春学藝ライブラリー、2014年)