ふと気がつくと、式場隆三郎ほか『二笑亭綺譚──50年目の再訪記』(求龍堂、1989年)で、柳宗悦(1889-1961)と谷口吉郎(1904-1979)の文章が隣り合って掲載されていた。この本を買った十数年前はまったく意識しなかったけれど、平凡の美を説いた柳宗悦と中庸の常識人である谷口吉郎が、この素人の奇想の建築をめぐる文章で名前を並べているというのは興味深い(どちらも1939年刊行の昭森社版『二笑亭綺譚』が初出)。両者にどこまで交流があったかは知らないけれど、共通の友人知人は多そうだ。

 狂者の創作は其の根底に於て変態的なものであるのは云うを俟たない。其の意味で吾々の模範とすべきものでもなく、又それによって幸福が約束されるものでもない。併し狂者と天才とが幾多の点で近似することが早くから注意されたように、狂人は其の異常な状態に於て、不可能なことを可能にさえする。それは何か遠い人間の或る本能を取り戻すかのように見える。だから常態に於ては有ち得ない力、又は既に喪って了った力を甦らすように見える。そうして屢々夢想だもし得ない驚嘆すべき作物を展開する。若し狂人が描いた絵画の或るものを展覧するとしたら、美術界に大きな波紋を投げるであろう。平凡人の近づくことの出来ない構図と色彩と表現とに満ちているからである。それを何も本道の芸術と呼ぶことは出来ない。併し其の閃きの著しい場合に出逢うことが出来る。何か眠っているものが忽然として覚まされるのである。心理的にみれば人間に潜在する能力の突如とした発露とも云えるであろう。瞬時の閃きであるから、発展を伴うことはないかも知れぬが、それだけに天来の響きがあろう。かかるものに接する時、尋常人の仕事はねむたげにさえ見える。

 だから、この建築を見てただちに、何か素晴らしい傑作のように云い囃すことは、どうかと思う。よく、狂気じみた自然性の跳梁なら、なんでもすぐ天才的なものに吹聴する変な趣味の人があるが、あれは慎むべきことと思う。
 そんな意味で、このアウト・オブ・スケールの建築が、もて囃されるのだったら、これは病的なものとして、或いはむしろ、今の私に最も嫌いなものとして、私はそれに反対したい。こんな正常を逸した狂奔を偏愛する趣味などは、決して健全な趣味とは云われないと思う。
 だが、一と頃、私自身も、表現派の盛んな時代に、あの古きものを叩きつぶして新しい形の閃映に驀進せんとした建築思想の怒涛に押されて、三角定規もコンパスも投げ棄てて、当時の尖端的な構成運動の美意識に刺激されたことがあった。だから、こんな野獣的な見方で見たら、この二笑亭の建築は、日本にも流行した三科やマヴォーの美術よりも素晴らしいし、ドイツ表現派建築家として大戦後の当時、世界的に有名だった建築家達の構想図にも決して劣っていない。