僕が学生の頃、わりと近い時期に出版されたミースに関する2冊の本を評して、ある先生がこういうことを言っていた。一方はミースを使って自分が言いたいことを言っているだけ、もう一方はミースにきちんと向き合って、そこから論を立てている。
以来十数年、僕は未だにその2冊の本のどちらも読んではいないのだけど、そうした些細な雑談のなかの一言を覚えているというのは、自分なりに何かしら本質的なことをそこに感じたからなのだろうと思う。やはり評論でも歴史研究でも、その文が扱う対象そのものへの関心よりも、その対象を著者が自分でどう解釈し料理してみせるかという関心のほうが先に立って書かれているものは、読んでいてどうしても身構えてしまう。福田恆存は「考える」という言葉の語源は「かむかう」、すなわち物事を「考える」というのはその物事に「向かう」ことであったという説を紹介して論じている(「考へるといふ事」『婦人公論』1961年3月号)。対象と向き合わなければものを考えたことにはならず、確かな主体も存在しえないというわけだ。これはかつて引いた(2013年6月23日前田英樹さんの言葉にも繋がっていく。

 畳の上の水練が面白い人はいない。空っぽのプールで魚釣りの真似をして面白がる人はいない。これは誰でもわかるが、言葉を操るだけの仕事となるとそうはいかない。水がないところで泳ごうとする人は、幾らでも出てくる。畳の上ならぬ一般観念の寝床の上で水泳の真似をする。どんな泳ぎの型でも自由自在、やりたい放題に泳いでみせられる。むろんこんなことは、それ自体として面白くはないが、それに拍手喝采する人がいるとなると話は別だ。当人もほんとうに泳いでいる気になる。面白くもない本心を隠して、架空の泳ぎを続けることになる。これはこれで苦しいことに違いない。
 架空の泳ぎに拍手喝采する人々が生まれるのは、どうしてだろう。言うまでもない。彼らもまた、自分たちの架空の泳ぎに一生懸命だからである。ここでは、何もかもが抵抗物のない虚構で成り立っている。泳ぎの巧拙を決める尺度は、水の抵抗でもそれに応じる身体でもない。互いの称賛や罵倒である。この世界は単に滑稽なだけではなく、人々を強く圧するやりきれない機構になる。この機構のなかに、さまざまな支配や服従や憎悪や嫉妬が生産される。するとこのことから、偽の楽しみ、架空の快楽さえ生まれてきて、もう私たちは苦しんでいるのか喜んでいるのか、自分でもわからなくなる。これは危険極まりないことではないか。