すばる2018年2月号

第1回すばるクリティーク賞受賞作の近本洋一「意味の在処──丹下健三と日本近代」を読んだ(『すばる』2018年2月号)。本格的な丹下健三論ではあるものの、著者は建築の専門外で、すでに小説家として知られている人らしい。新鮮な語り口による2段組22ページの力作。ただ、僕が文学的批評(?)を読み慣れていないせいもあってか、全体はうまく把握しきれずにいる。
併載されている選考座談会(大澤信亮×杉田俊介×浜崎洋介×中島岳志)で、ゲスト選考委員の中島岳志さんは「アカデミズムの世界では絶対、これは書けない」「批評でなければならない必然性がある」と発言されているけれど、この受賞作は、例えば福田恆存が次のように書く批評の条件は満たしていないように思われる。

批評家たらうとするもののけつして頼りにしてはならぬもの──一に知識、二に體驗、三に獨創性。
[…]常識、常識、常識──これ以外に頼りになるものがあらうともおもはれぬ。

  • 福田恆存『否定の精神』銀座出版社、1949年(『福田恆存評論集 第十六巻』麗澤大學出版會、2010年、pp.57-58)

おそらく受賞作は、「常識」ではなく「知識」や(小説家としての)「体験」や「独創性」を頼りにしている。同じ座談会で選考委員の浜崎洋介さんが「これは正直、難しかったですね。[…]初読のときは、途中から全く論の展開についていけなくなってしまいました(笑)」と言われているのも、この非常識性に由来するのではないだろうか。著者が「身体、論理、言葉、意味、価値、風土など互いを結びつける普遍性によって成立するのが広場」であると「広場」の重要性を説くとき(それは本論の軸にもなっている)、その「広場」が成立するために「常識」は不可欠だと僕には思えるのだけど。以下、テキストを読んでいないと分からない話。
最後まで読み進めて僕は、明治建築界のトップである辰野金吾が設計した日本銀行本店(1896年竣工)のことを思い出してしまった。上空から見るとそこに日本の通貨単位である「円」の文字が浮かび上がるという奇跡(信じるか信じないかはあなた次第)。

まあそれは半分冗談にしても、例えば本論は、一般に丹下健三のいちばんの代表作とされる代々木の第一体育館(1964年竣工)が明治神宮本殿と同一軸線上に配置されていることに言及していない。論の内容と範囲からして、それはいくぶん不自然に感じられる。意図して避けたのかどうかは分からないけれど、もし比較的よく知られたこの事実を本論のなかで認めようとすると、論の在り方はかなりの変更を強いられるように思われる*1。仮に本論が常識に基づいて組み立てられていれば、そういった不具合はまず起きないだろう。「あ、じゃあそのことにも触れておきましょう」という感じで柔軟に対応できると思う。けれどもこの文は筆の力でアクロバティックに形づくられているぶん、ふとしたところで構造の脆弱さを見せてしまう気がする。

*1:【1月17日追記】これはすこし想像すれば明らかなことのように思っていたのだけど、どうもそうではないようなので若干捕捉しておく。代々木体育館と東京カテドラルは同じ1964年に竣工し、なおかつぱっと見の屋根が反り返るかたちがよく似ている。近本論文はその最後、東京カテドラルをめぐる奇跡の絶対性を強調し、そのことを読者に信じさせることに文の存在が懸けられているように見えるけれど、その奇跡と似たようなこと(どこがどれだけ似ているかはさておき)が同時期の代々木体育館においても確認できる、しかもより明確に1枚の航空写真のなかででも確認できるという事実は、東京カテドラルにおける奇跡の絶対性を相対化してしまう。代々木体育館/明治神宮ラインの存在は、東京カテドラルにおける「奇跡」や「偶然」や「カトリック」や「祈り」や「峯」や「ヤン・レツル」や「ミケランジェロ」や「富士山」などが持つ意味、著者がレトリックを駆使して構築したそれらの意味を、相当のレベルで骨抜きにしてしまうと思う。