雪あかり日記/せせらぎ日記

谷口吉郎『雪あかり日記/せせらぎ日記』(中公文庫、2015年)を読んだ。絶版の単行本2冊を合わせた分厚い文庫。発売当初に買って2年ほど寝かせておいたものだけど、『雪あかり日記』のほうは3年ほど前にも部分的に読んでいる(2014年11月1日)。どちらの本も1938年から39年にかけてのおよそ1年間、30代半ばの谷口吉郎(1904-79)がベルリンを中心にしてヨーロッパに滞在していたときの日記(当時書かれた日記そのままではなく、出版のために後日書き改められたもの)。谷口は1939年9月のドイツによるポーランド侵攻を受け、当初の予定を変更して、緊急の避難船で日本に帰国している。

 それ故、私がドイツに滞在した約一年間は、歴史が暗転していく激流のさ中だったと言えよう。その点で、私には得がたい体験であったと言えるが、いろいろと深刻なショックを受けたことは確かだった。
 まず、神戸を出港して約一ヵ月、はるばるベルリンに到着すると、その第一夜に暴動が起っている。ナチス党員がユダヤ人の経営する商店を襲撃し、教会堂も焼けているのに驚いた。そのベルリンに住んでみると、ユダヤ人に対する政策が想像以上にすさまじいのを知り、ますます驚愕を深めた。
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 そんなベルリンで私は冬を越したのであった。毎日、暗い天候が頭を押しつけ、気分を重くしめつける。それは想像以上のもので、日本の北陸地方で育った私にさえ、ドイツの冬の心理的重圧は、骨身にこたえた。その憂鬱さから逃がれるために、私はできるだけ美術館を訪れ、オペラ劇場へ出かけた。絵や彫刻に接し、音楽と舞台に包まれていることが心の救いとなり、寒い夜、ローソクの火が光る古い教会堂の中でミサの曲にも耳を傾けた。
 しかし、それによってドイツの冬がドイツ人の美意識に強い影響力を与えていることを実感することができたのは、得がたい経験であった。それが日本の建築家である私の意匠心に、風土と造形という問題についていろいろな示唆を与えた。そう考えると、緊迫したベルリンの世相の中で暗い冬を過ごしたことが、私にとって有意義な体験であったと、今、つくづく思う。(pp.522-523)

谷口はもともとベルリンで建て替えられる日本大使館の工事監理のため、伊東忠太の指名でベルリンを訪れている。言ってみれば国家の代表としての訪問であるわけだけど、そうした立場の使命感や風格や落ち着きが文章から感じられ、とても今の自分と同年代の人間とは思えない。ではまったく高みにいて自分の手の届かない人間かというとそうでもなく、建築や芸術、社会や政治や文化や日常の様々な出来事に対する姿勢は地に足がついていて、その「地」は時代を隔てた自分とも連続しているように思える。すぐれたバランス感覚をもち、確かな常識や教養に支えられた観察や考察は、当時の時代や環境の制限をほとんど感じさせることなく受け入れられる。むしろ特殊な時代や環境であるぶん、その谷口の確固とした自律的な思考が際立って感じられる。建築史の表層だけを見ていると、この時代の日本の建築家たちはモダニズムの流行や時代性に従属しているように見えてしまいがちというか、後世の自分のほうがそのドグマを相対化して彼らの上に立っているような気がしてしまいがちだけれども、そんなことはまったくない。下は堀江敏幸先生による文庫版解説「あの軍帽と口髭が」より。

正と負の両面を理の力で見きわめ、負の要素のつよい部分であっても、日常と接続した感覚や情に訴えるところがあれば素直にみとめたうえで、なお負の比重の大きさを伝える冷静さ。[…]
谷口吉郎の思考の「形」は、あらたな「事変」の種を抱え、「くりくり坊主」のような言葉と子どもじみた振る舞いが横行する現在の日本でこそ読み直されるべきものだろう。

下記リンク先は、解体間近のホテルオークラ本館(設計=谷口吉郎他、1962年竣工)を訪れた日の日記。