来年は六本木の森美術館でも日本の建築の展覧会があるらしい。ホームページの告知文を読むと、いま東京国立近代美術館で開かれている「日本の家」展とも比べられそうなテーマ。一方は戦後における住宅建築の系譜を浮かび上がらせようとし、一方は古代まで建築の起源を探求しようとする、と言えるだろうか。

日本の伝統建築は、その文化財的価値を認められ、フランク・ロイド・ライトブルーノ・タウトなど、20世紀を代表する近代建築家たちに強い影響を与えました。若き日のライトは、1893年のシカゴ万博で初めて日本の伝統的空間に接し、そこに20世紀の近代建築が目指すべき空間性を発見、独自のスタイルを確立したといわれています。日本においては、伝統を再考し、新たな建築の可能性を模索してきた丹下健三谷口吉生隈研吾などが国際的にも高い評価を得てきました。これまで数多くの日本人建築家が、建築界のノーベル賞と称されるプリツカー賞を受賞しています。日本の現代建築がこれほどまでに国際的に注目される背景には、古代より現代に受け継がれる日本建築の遺伝子が存在し、創作において潜在的な影響を与えているからとは考えられないでしょうか。
本展は、日本の古建築と近現代の建築を比較分析し、その表現の差異や継承を貴重な資料や模型、体験型インスタレーションの展示を通して顕在化させるこれまでにない建築展です。現代建築がグローバルに均質化するいま、歴史を踏まえ、日本の建築を概観することは、独自性ある都市や建築の未来を考える絶好の機会となるでしょう。

ただ、この告知文には引っかかるところもある。一言でいえば、個々の建築や個々の人物を、より広く抽象的な概念で括ろうとするときの手つきに対する違和感。それはこのまえ「日本の家」の展覧会評(→PDF)で書いたことにも通じるかもしれない。
例えば、たしかにライトやタウトは日本の伝統的な建築に惹かれたのだろうけど、それはそこに「文化財」としての制度的・客観的価値を認めたからというより、個々の具体的な建物自体に魅力を感じた、それがたまたま日本の伝統的な建築だった、ということのほうが事実に近いのではないだろうか。実際、ライトのことはよく知らないが、タウトは文化財的な日本建築でも否定の評価をしているものはあるし、文化財的でない日本の建物で肯定の評価をしているものもある。
また、たしかにライトがシカゴ万博の日本館に大きな影響を受けたというのは有名な話だけれど、しかし本当にそのとき、1893年に「20世紀の近代建築が目指すべき空間性を発見」しただろうか。おそらくまだモダニズムという言葉や枠組みさえない時代に、20代半ばのライトがシカゴというアメリカの一都市で、そのような歴史的なヴィジョンを獲得しえただろうか。なおかつライトにインターナショナルなモダニズムを先導する意識はあっただろうか。
また、たしかにライトやタウトを「20世紀を代表する近代建築家」と言うことはできるとしても、「日本の伝統建築は[…]20世紀を代表する近代建築家たちに強い影響を与えました」という書き方は、この二人以外の「20世紀を代表する近代建築家」にも強い影響を与えたという印象をもたらす。しかしはたして、ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエヴァルター・グロピウスも、それに当てはまるだろうか(さらに言えば、タウトが日本建築の影響を受けたのは、彼がその近代建築家としての歴史的な活動をほぼ終えた後のことだから、日本建築がタウトを介して西洋の近代建築に影響を与えたとは言えない)。
ところでここで書かれる「影響」と、展覧会のサブタイトルにある「遺伝子」との関係はどうなっているのだろうか。例えばライトが日本建築に「影響」を受けたというのは定説だとしても、そのことを「ライトは日本建築の遺伝子を受け継いでいる」と言い換えられるのだろうか。つまり、生まれ育った土地の風土や生活環境がまったく異なる人間あるいは建物でも「遺伝子」を受け継ぐことはできるという認識なのだろうか。それとも一般に「遺伝子」というのが先天性のものであり、個人の意志や努力ではどうにもならないものの比喩だとすると、ライトは「影響」こそ受けたものの「遺伝子」は受け継いでいないという言い方になるのだろうか。
以上、リンク先の告知文の1〜2文目に対して湧いてくる疑問を書き留めてみた(3〜5文目にも似たような疑問は湧いてくるけれど、それは省略する)。要するにこの文では、個々の建築や個々の人物を、その実体から乖離させてまで、より広い観念的な枠組みのなかに位置づけ、権威づけようとしているという印象を受ける。おそらく実際の展覧会はこの匿名の告知文とは違うレベルで作られるとは思うけれど(期待したい)、こうした言葉を良しとすることは、単に世間一般の愛国主義的風潮に加担するだけでなく、固有の建築や固有の人物、さらにその両者の出会いの固有性をないがしろにしてしまうことにもなりかねない。「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。」という小林秀雄の言葉を思い起こさせる。