ここ最近、家で観た映画。内田吐夢『血槍富士』(1955)、侯孝賢『冬冬の夏休み』(1984)、岡本喜八ジャズ大名』(1986)、フランシス・フォード・コッポラペギー・スーの結婚』(1986)、マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』(2009)、同『家族の灯り』(2012)、アキ・カウリスマキル・アーヴルの靴みがき』(2011)。
ペギー・スーの結婚』はよい映画だった。大衆的かつ非現実的でありながら人間の普遍的な問題に触れているようで、どこか相米慎二の『東京上空いらっしゃいませ』(1990)を思い起こさせる。F・F・コッポラの作品は、『ゴッドファーザー』(1972)、『カンバセーション…盗聴…』(1974)、『地獄の黙示録』(1979)など、どれも非常に質が高いのに、それらに一貫する思想的個性みたいなものを感じにくい。それは映画作品に監督個人の人間性を見る僕(2月6日)にとっては不思議なことだ。後年は監督より製作の仕事が増えているのも、コッポラのそういうキャラクターと関係したことなのかもしれない。あと『ペギー・スーの結婚』に出演しているニコラス・ケイジの本名がニコラス・キム・コッポラで、F・F・コッポラの甥であるというのを初めて知った。
オリヴェイラの2作はどちらもよいものだけど、『アンジェリカの微笑み』(2010)を映画館で観たとき(2016年1月23日)の濃密な気配のようなものがまだ記憶に残っていて、テレビの画面だとなんとなく物足りない感じがしてしまう。あるいはそれは、人物のアップが少ない(ような気がする。特に『家族の灯り』。つまり画面上で人物が小さい)といった映画の作り方にも関係したことかもしれない(一般にテレビドラマは人物のアップが多い)。2作ともハッピーエンドとは言えない唐突な終わり方。しかしむしろそのドライな切断の仕方が作品世界を自律させ、ハッピーエンドかバッドエンドかという観る者の解釈を介在させずに、「それそのもの」としての世界の存在を納得させるようにも思える。
ル・アーヴルの靴みがき』は5年前に映画館で観たときはわりと冷たい感想を記しているけれど(2012年5月3日)、カウリスマキの他の映画と比べてどうかということは保留にしておくとしても、単体として悪い映画ではないと思った。一方、岡本喜八は好きだけど『ジャズ大名』が今一という印象は変わらなかった。