桑沢デザイン研究所「建築・都市概論」の見学会(5月9日)で学生たちが撮影した《SHIBAURA HOUSE》と《蟻鱒鳶ル》の写真をネットで公開(4年目)。

去年17人だった学生が今年は40人に増え、写真とともに提出された文章(批評文)の添削をするのが大変だった。作業開始後、やめておけばよかったと思った。その自責の念が、以下の総評にも苛立ちとして表れている。僕が指摘したことを何人かでも心に留めておいてくれる学生がいることを信じるほかない。

◎総評
実際に見学して見た具体的なものや自分の実感に向き合わず、外から取って付けたように、耳障りの良さそうな抽象的な言葉で安易に文章をまとめてしまっているものが、全般的に目立つ。そうした態度は単に文章を書くという行為においてよくないだけでなく、ものを作るという行為においてもよくない。もっと自分の観察や体験を頼りにして、そこから思考や感覚を広げたり深めたりするように努めること。
一方で、自らの単なる印象や感想に終始している文章も多かった。自分の実感は大切だが、それを一言二言で書いてみても、批評文として他人が読む価値はないし、自分にとってもプラスにならない。実際、そうした感想がそれぞれ個性的かというと、むしろどれも個性が感じられず、一様に一般的な型にはまっているように見える。自分の印象や感想をあらためて捉え直し、他者に伝達可能なように(たとえその他者が自分と異なる見解を持っていたとしても)、客観的・論理的に言語化するように努めること。
例えば「遊び心」という言葉が多く目に付いた(合計8回)。それは読む人にある種のイメージを伝えやすい言葉だが(ネットや雑誌の広告的な文章などでよく使われる)、そういう言葉こそ、本当にそこでその言葉を用いるのが適切なのか、自分に対して疑いを持つ必要がある。自分で自由に言葉を使っているつもりでいて、むしろ自分が言葉に支配されている可能性がある。その言葉を用いることで、自分の思考や感覚がそこで停止してしまっているのではないかと意識してみることも重要。
また、建築の存在は一人の人間が思うよりも大きなものである。たった1回の1時間程度の見学で、その全部を把握できるとは思わないようにすること。その1回の印象や感想は、見学した日の気分や天気や同行者などによってまったく異なるかもしれないし、5年後や10年後に訪れてもまったく異なるかもしれない。その建築を毎日使っている人や毎日眺めている人とも、まったく異なるかもしれない。とりわけ自分で建築をデザインしようとする人間は、そうした無数の可能性をかかえる存在として建築を認識する必要がある。

     
第2課題はもうすこし負担が小さいものにしたい()。