エドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』(1991)を、川崎市アートセンターアルテリオ映像館で観た(〜5/12)。236分の大長編。パンフレットには、先週観た『ハッピーアワー』(317分)の濱口監督が文章を寄せていた。先月観た『バンコクナイツ』(182分)の富田監督もコメントを寄せていた。長い映画が続く。
『牯嶺街少年殺人事件』は世界をありのままに捉えた作品(映画の分野に限らず)の一つの極点として、僕のなかで認識されている。その意味で、たまたまいま読んでいた本で引用されていた次の言葉とも、完全に重なりはしないまでも響き合うものを感じる。

チェーホフの世界観は徹底した唯物論であつて、かれの見つめてゐる人間のすがたは、透徹した実証主義精神によつて完膚なきまでに分解されつくして、人間的なもの、精神的なるものは極点にまで追ひつめられ、後退し、あらゆる夾雑物を去つて稀薄にすらなつてしまつたのであるが、同時に、ドラマトゥルギーのうへでもあくまで合理的に、理づめに設計されつくした作品の全体にわたつて、稀薄ではあるが、それゆゑの純粋さとでもいふものが、しみじみとにじみでてゐるのである。坂口安吾はいつてゐた──あのセンチメンタリズムはひじように高いものだよ、と。

この映画の創作においては、第2次世界大戦後の台湾の時代状況や少年少女に固有の世界に対する強い思いが監督に衝動としてあったのだろうし(それはエドワード・ヤンの他の作品を観ても感じる)、それを描くために入念な構成や演出がされているのだろうけど(素人の役者を使ってドキュメンタリー的・即興的に撮れば世界をありのままに描けるとは限らない)、そうして出来上がった作品には主観を貫いた客観のようなものが感じられる。タイトルがネタバレ的に示す物語終盤のクライマックスも、映画の最初から直線的に導かれたものとは感じさせず、悲劇的でも喜劇的でもなく、ただそういう出来事が起きた、それを映画が捉えた、そんな印象を受ける。