外山滋比古『新エディターシップ』(みすず書房、2009年)を読んだ。エディターシップなるものを哲学的に問題にしようとするくらいの著者だからなのか、思考を深めるというよりも拡散させるような文章で、それぞれの断片が自然と他と結びつき、読むごとに異なる思考を生成するような本であると思った。以下、分析と統合(編集)の対比について。

 われわれにとって外界はまず混沌として出現する。それは分析によって認識に達することができる。「分かる」というのは「分かつ」ことだという。知的な活動がつねに分析的方法を要請し、それがやがて分析的感覚を発達させる。
 そのおかげで人間の文化は進歩をとげたわけで、科学や学問はさしずめそのもっとも尖端的成果である。しかし、人間がこういう冷たい認識だけでは幸福になれないのもまた事実である。創造にとって分析が不要なわけではないが、より多く統合が求められる。ところが、分析に比べて統合にはなおはっきりしないことがあまりにも多い。科学や学問に方法論が確立しているのに、統合によって生み出される芸術にはいまだに方法がないのは、その何よりの証拠であろう。
 分析は科学を生み、統合が芸術を創ると考えられるが、一般的に言って、分析の原理のみひとり先行して統合の原理はなおざりにされているのが近代文化の特性である。現象は無限に小さな断片へ解体され続けるけれども、それらを再び新しい全体へ構成しようという志向と方法が欠けているために、断片のままで放置されている。機械を分析することに夢中になった子供が、部品をバラバラにしてしまうと、もう元のとおりに戻すことができないのに、いくらか似ている。ましてや、元の形よりすぐれた全体をつくることなど思いも及ばない。こういう文化状況はかの言語的混沌、バベルの塔の寓話を連想させる。(pp.176-177)

考えてみると今度の号外『建築と日常の写真』は、まさに作りながらエディターシップを意識し続けさせられた本だった。よく写真は時間や空間を「切り取る」と言われるけど、それならば写真集はそれらの時空間を統合するものだろう。特に『建築と日常の写真』では、それぞれの写真は「写真としての意味」だけでなく、写真の被写体である「建築としての意味」も持っていたし、さらにそこに書き下ろしのテキストを合わせていったので、編集には多次元の要素が介在していた。そして、より多方向に思考を拡散させるような本の在り方を目指していたと思う。かつて自分が撮影した写真を見返し、取捨選択をしたり並び替えたりすることで、自分のなかにも新たな思考の網の目が広がっていくような感触があった。