固有性と普遍性の関係。昨日の日記で書いた「〜さんらしい言葉を期待したい」ということと、カーンから引用した「あなたが、行うことの内で、あなたに属していない部分は、あなたにとって最も貴重な部分」ということは、一見矛盾しているように思えるかもしれない。確かに論理的に整理されてはおらず、なんの気なしに併置してしまった。しかしこれが矛盾しないということが実は大切であるのだと思う。事実、カーンの建築は普遍性を感じさせると同時にカーンらしさも感じさせる。つまり普遍性というのは、実際にかたちとして現前するときには、あるレベルの固有性をともなって現れてくるのではないだろうか。あるいは何かが何からしくあることが、そのまま普遍性に通じうるということ。以下のような言葉と重なる気がする。

二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。

“音楽はまず、(やっている)その人ありき”、っていうのをいつも思ってて。だから……すごいカッコイイ人はすごいカッコイイことをそのままやればいいし、カッコ悪い人はカッコ悪いことをやればいいし、って。なんか、そういうことは俺、二〇歳前後ぐらいに思ったから。[…]なんか、あの、TVとかダラダラ見るじゃないですか。そのー、俺、TVすごい好きなんです。だから「そんなTVばかり見てる人間に、何が出来るんだよ」っていうところもね、音楽にないと、楽しくないかなっていう。だから自分に忠実でさえあれば、何でもいいのかなって。

  • 佐藤伸治インタヴュー「静かなリアル」『Quick Japan』VOL.18、聞き手=編集部、1998年(復刻版2012年)

ぼくらみんな、ジーナ、ぼく、そしてみんなにとって、映画を作る上で重要なのは、映画作りには作り手次第でいろいろと違ったやり方があり、いろいろと違ったアプローチがあるって気づくことなんだ。つまり、誰にもぼくのことを見習ってもらいたくないんだよ! 自分が何者か言ってごらん。何者になりたいかってことじゃないぞ。どうならなくちゃいけないかってことでもない。ただ自分が何者なのか言ってごらん。ありのままの自分で充分なんだよ。