長谷川逸子さんが主宰するgallery IHAで、連続レクチャー「1970年代の建築的冒険者と現代の遺伝子」の第4回「建築のエシックス」(坂本一成×能作文徳)を聴いた。ギャラリーの建物は長谷川さん自身の設計による《BYハウス》(1985年竣工)()で、もともと長谷川さんの事務所が入っていたのを改修したもの。上の写真は今日から2週間ほどの予定で始まった坂本先生の展覧会。「厳島港宮島口地区旅客ターミナル」プロポーザル案を中心に、『建築家・坂本一成の世界』()にも掲載している最近のプロジェクトの模型や図面が展示されている。追って能作さんの作品を撮った動画も上映展示されるらしい。上階は長谷川さんの常設展で、いずれも入場無料。

対談は、事前に『住宅特集』の最新号(2016年11月号)で発表された能作さんのテキスト「「もの」と人の連関を再縫合する建築へ」も読んでいったのだけど、それも含めて能作さんの話が今一ぴんとこなかった。能作さんは、グローバリズムや経済合理主義にもとづく物の流動性(場所性や文化、人間の営みと無関係に物が世界中を流通していること)を人類史的な射程で問題視し、批判している。その見立て自体には特に異論はないのだけど、僕からすると、そういった流動性に対する批判は、物だけでなく言葉や思想にも当てはまるように思える。その点、能作さんの話は、他領域の最新状況や錚々たる哲学者・思想家から思うがまま自由に言葉を引っ張ってきている感じがあって、それらの言葉が能作さん自身に根ざしている印象が薄い。対談の途中、長谷川さんから、「(ともに長谷川さんが師事した)菊竹清訓篠原一男は同じ単語を使っていても話がことごとく通じなくて、自分があいだに立って通訳をした」という興味深いエピソードが披露された。そのように言葉というのは、ある種の普遍性を持ちつつも、同時にそれを発する個人や共同体、文化や歴史や明文化できない文脈に深く根ざしたものでもあると思う。
例えば(決して文章がうまいとは言えない)坂本先生の言葉が建築界でも第一級と思えるのは、それが自らの建築家としての実践を豊かな土壌にして、その内部から生まれ出てきた言葉だからだろう。あるいは世俗的な目的のための対外的な言葉ではなく、事実や真理を探求する言葉と言ってもいいかもしれない。対外的に他者を説き伏せようとするような言葉は、どうしても目先の理屈や発言の勢いに頼りがちになって、むしろ言葉から公共性が失われてしまう。能作さんも、確かな言葉の土壌となりうる建築家としての実践があるのだから、あくまでそこに軸足を据えて言葉を発したほうがよいのではないだろうか。偉そうな物言いだけれど、能作さんの実直さにはそのほうが向いていると思うし、世の中全体が空疎で取って付けたような言葉に傾いているなかで、僕は能作さんに能作さんらしい言葉を期待したい。
下の画像は、一通り対談が終わった後、客席から発言させてもらったときに触れたルイス・カーンの〈コモナリティ〉概念について。『建築と日常』No.3-4()の香山壽夫インタヴュー「歴史としての建築」より。

価値判断を「今、ここ」だけに閉じずに、空間的・時間的に隔てられた人とも物事の良し悪し(善し悪し)を共有しうるという信念。あまりうまく説明できていなかったかもしれないけど、この〈コモナリティ〉は坂本先生にも確かに見いだせるのではないかというつもりで言及したのだった。