なにかを好きでいることは、それ以外のものに対しての排他性を強めることにもなるだろうか。「好き」という言葉が「嫌い」という言葉と対になっている以上、そういった相対的な評価が発生することは否めない。しかし現実はそれほど単純な対立関係には収まらないと思う。
例えば自分が好きな建築になんらかのモダニズムのエッセンスを見出したとしたら、モダニズムというものを容易には否定できなくなる(別にモダニズムをポストモダンや古典主義に言い換えてもいい)。自分が好きな思想家がデカルトの影響を強く受けていると知ったら、デカルト批判をする人と同調することにためらいが生まれる(これも別にデカルトでなくても誰でもいい)。自分が好きなミュージシャンがテレビを好きでよく見ていると知れば、テレビなんてくだらないものだと一概に軽蔑することはしづらくなる。自分が好きなアメリカ映画や韓国映画やイラン映画があったとしたら、それらの映画が生まれてきたそれぞれの国を簡単に切って捨てるようなことは言えなくなる。
「好き」は「嫌い」を生み出すこともある一方、現実の世界をより細やかに捉えることを促す場合もある。それは現実の世界が様々なものごとの複雑な絡み合いのなかで成立していて、そう簡単に割り切れるものではないからだろう。その複雑な絡み合いの在り方を文化(culture)と言い、自らもその絡み合いのなかに取り込まれて生きていることを教養(culture)と言うのかもしれない。