『建築家・坂本一成の世界』の刊行イベントに向け、服部さんのインタヴュー記事や講演録を読んでいる。

例えば『フィッシュマンズ全書』(小学館、2006年)や『ジョン・カサヴェテスは語る』(ビターズエンド、2000年)、伊藤雄之助『大根役者・初代文句いうの助』(朝日書院、1968年)などと同様、もともとテキスト以外の作品に慣れ親しんできた創作者のまとまった文章に初めて触れたときの「やっぱりそうか」と妙に納得させられる感じが服部さんの文章にもある。そしてそれは少なからず坂本先生の作家性とも響きあうものだ。以下、それが感じられるあたりの抜粋。

●こういうふうに説明すると、まるでそういうことをクリアに理解して、そうしようと思ってつくったかのように言ってしまった気もしますが、実際には、これはいけそうとか、これはちょっと違う気がする、そういう勘を頼りにやっていって、あとで思うと、そういうことを自分の中で無意識に判断していたのかなと。結局、デザインやアートディレクションの仕事は、直感みたいな部分がものすごく大事だなと最近よく思います。(「直感とアートディレクション──服部一成のデザイン・アプローチ」『Design News』266号、2004年6月)
●僕は、デザインが世の中に貢献するということも疑ったほうがいいと思う。もちろん、世の中に貢献する部分はあると思いますし、世の中に与える影響には責任を持たなければいけませんが、世の中のためにデザインしていると軽々しく考えるのはおこがましいと思う。というのは、デザインがないほうがいいこともいっぱいありますよね。デザイナーがデザインしたためにうっとうしいというか、こんなところにデザインしなくてもいいのにということもいっぱいある。きれいにデザインされてることが嫌だという人もけっこういるわけで、そのことはわかっていたほうがいい。(同上)
●仕事の上ではいつも、「今までとは違うものを」という意識があります。[…]でもそれは「ただ変わったものを作ればいい」ということとは違います。奇を衒っただけのものは望んでいません。必然性もなく、ただ目立とう、驚かそうとしてるデザインは幼稚なだけです。そういうことで注目されたくはない。それに、服部っぽいと言われたり、自分のテイストを確立したい意識もありません。むしろ、そんなのがあったら恥ずかしいですね。(「日常の切りとり方──アート・ディレクター服部一成の仕事術」『GA JAPAN』70号、2004年9月)
●「キユーピー・ハーフ」の広告では、日常をモチーフにしていますが、本来、日常とは退屈なものだと思うんです。[…]それは本人にとっては大切なものかもしれないけれど、そのままを形にされても退屈なだけ。他者はなかなか興味を持てるものではない。まして、広告という場で、世間の人たちに魅力を感じてもらうには、ある種のマジックが必要になります。(同上)
●ありふれた既製のものを使って、新鮮なものを作ったり。そういうのは好きですね。(「服部一成120分」『アイデア』317号、2006年7月)
●でも、「辞書は辞書らしくありたい」っていう気持ちは強いですよ。仏和辞典だから、フランスっぽくお洒落にすればいいんでしょ、というものでもない。だからといって、いま世の中に出ている辞書のデザインだけが正解というわけでもないであろうと。(同上)
●つまり、ディテールを決めていくことでいいデザインが出来上がるんじゃないはずだ。良いか悪いか決まるのは、もっと違う所にあるんじゃないか? という。[…]ちまちま気の利いたデザインは止めよう。そのかわり、ページの中での位置や大きさ関係は結構重要だから、それはがんばろうと。グリッド決めて、テキスト流し込めばいいっていうのとはちがうやりかたですね。見開きごとに幾何構成やってるような感じで。(同上)
●破壊のための破壊というのもまた嫌なもんで、アヴァンギャルドのためのアヴァンギャルドもまたかっこ悪い。僕は「デザイナー的デザイン」を信用したくはないけれど、でもやはりデザインには何かあるはずだ、と思っているんですね。デザインでしか果たせないことがあるとは思ってる。(同上)
●僕が偏愛している太ゴB101という文字は、「文字以上でも以下でもない」という感じがすごくするんです。[…]僕の志向としては、書体自体が文字以上になろうとしているというか、文字以上になにかを見せかけようとしている書体は、あまり使いたくない。(「私のデザインと文字」『文字講座』誠文堂新光社、2009年)
●「大事なのは広い意味でのバランスなんだと思います。造形だけでなく意味のバランスをどう取るか」(「予定調和を崩した文字使いで違和感の中に不思議な面白さを」『デザインノート』49号、2013年6月)

例えば一番上の抜粋に対応する坂本先生の言葉として、まさに『建築家・坂本一成の世界』のインタヴューで語られた次のような言葉がある。

僕は他の人の建築を観ても、論理的に評価をしているわけではなくて、かなり感覚的です。自分の設計でも、理屈を積み重ねてつくるようなことはない。あるイメージを構想し、それが直観的にいけるかどうか。そういう意味では言葉は最初にはありません。これまで書いてきた文章でも、この言葉からこういう建築になったという言い方はしていないと思います。結果的にこれはこうだったのではないかという言い方しかしていない。(「言葉・批評・メディア」『建築家・坂本一成の世界』LIXIL出版、2016年)

さらに下から2番目の書体についての抜粋に対しては以下の言葉。

ロラン・バルトに記号性機能体という概念があります。ある機能を持った物が、その機能以上の意味を持たないような在り方。例えば道具はそういう性質が強い。僕のなかには建築もそういうものであってほしいという思いがあるわけです。(「日常・文化・建築」『建築家・坂本一成の世界』LIXIL出版、2016年)

その他の抜粋も、たぶん坂本先生の言葉で対応するものを探そうと思えばすべて探せると思う。
こういったお二人のジャンルを違えた共通性は、僕にとって実に興味深いものだけれども(お二人それぞれの創作を考える上でも、建築と本それぞれの在り方を考える上でも、異なる個人による創作同士の関係や異なるジャンルの創作同士の関係を考える上でも)、お二人それぞれは特に意識していることではないかもしれない。そうするとイベントでどこまで話題にできるかが問題になってくる。お二人の共通性を文章で分析的に論じていくことはおそらくできると思うのだけど、観客を前にした対話の場でそれを指摘しても、「ああ、そうかもしれませんね」で話が終わってしまいかねない気がする。そこから話を展開させていくのは司会の腕の見せどころだ。しかしあいにく司会業の腕は僕にはない。
以下は、最初『建築家・坂本一成の世界』のエディトリアルデザインを服部さんに依頼することを提案したとき、とりあえず坂本先生に見ていただいたサイト。坂本先生の思想に馴染んでいる人にとっては、リンク先の服部さんの短いレクチャー動画を見るだけでも、このお二人の組み合わせにぴんと来るものがあるのではないかと思う。