中平卓馬さんの訃報。特に近しい関係でもない限り、すでに現役を退いたくらいの年齢の人が亡くなっても、普段はあまり残念に感じることはないのだけど(むしろその人の人生のごくわずかしか知らないにもかかわらず、気やすく残念と口にしたりすることに抵抗を感じる)、中平さんの死は僕にとっても一つの喪失として感じられる。その写真を実際に見る機会があるにせよないにせよ、「中平卓馬が今日もどこかで写真を撮っている」という意識/無意識が僕の日常から欠けてしまう。
以下、中平さんの最初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社、1970年)を多木さんが評した文の冒頭から。

 大きな世界と小さな魂とがこの本のなかでふるえている。ただそれだけなのだ。いやこの本全体が時代の戦慄すべき徴候なのである。あるいはその神経症的なあらわれといってもいい。なにものかに向って炸烈するのが存在であるとすれば、これほど見事な存在の記録はあるまい。風景などと遠まわしにいうものではない。むしろそんな言葉をもちださぬ方がいい。ぼくたちに残されるのは世界のなかを遠くからやってきて吹きぬける風のようにすぎていくかれの後姿なのだ。つまり、これはかれの見ている世界でなく、かれが動いていく気配=起伏が世界からとりあつめる断片であり、起伏そのものが世界なのである。見るという行為に付与されたあたりまえの意味(遠隔操作)はそこにはなくて、見ることは見えないものへむかっての投身であり、むしろ見ることの禁欲なのである。

  • 多木浩二「来るべき言葉のために」『デザイン』1970年12月号(所収:多木浩二『ことばのない思考──事物・空間・映像についての覚え書』田畑書店、1972年)