所沢市立第2学校給食センターで、展覧会「引込線2015」(〜9月23日)を観た。といっても、22日のトークイベントに向け、利部さんのインスタレーション作品《垂直の波》を集中的に。上の写真はその一部。
利部さんの作品への関心をあえて建築と日常への関心と重なるように言うと、ある種の古典的な彫刻(よく知らないけど)のように一つのクライマックスの状態に永続性を求めるのではなく(利部さん自身は彫刻家を自称している)、作品を構成する複数の部分が釣り合いや中庸を保ちながら生き生きとした開放系をなす、様々な物の組み合わせや位置づけによって鑑賞者それぞれの過去や記憶に体験が響き合っていく、といったようなことになるかと思う。ある物がもつそれ固有の意味(極端な例で言えば「原爆に遭った人の衣服」や「津波に流された家の瓦礫」のような、無視しがたい絶対的な履歴や痕跡、物語性)を適度に脱色したり(明らかな「廃材」が主だった以前の作品よりも、近年の作品は扱われる物の抽象度が高くなっているように見える)、一般の建築に比べて重力に対する脆さや施工のほころびを感じさせたりするのも、そうした他律的で開放系の世界を成り立たせることに寄与しているように思う。作品を理解する者としない者とを分け隔てるような、完成された自律的な世界ではなく、これまで生きてきた日常の経験がある者なら誰しもに開かれた世界。
たとえばこの会場の面白さもそうしたことと繋がっているだろう。僕個人の経験で言えば、小学生の頃には学校給食があって、それが毎日どこかから運ばれてくることは知っていても、どこでどんなふうに作られているかを知ることはなかった。もちろん僕が食べていた給食は、この所沢の給食センターで作られていたわけではない。しかし、この旧所沢市立第2学校給食センターという場所が、それそのもの(固有性)としてだけでなく、モダニズムの建築言語を媒介にして「学校給食センター」という抽象化された形式を感じさせることで、この場所の「今、ここ」の経験が、まったく別の場所にいた小学生の頃の僕の過去とも響き合ってくる。給食の調理に関わる様々な専門的な物からは、それを初めて見る目新しさとともに、給食を食べていた頃の自分を思い出す懐かしさも生まれる。同じ建物の内部に従業員たちが休める比較的大きな畳敷きの部屋があるのを見たりしても、そんなものまであったのか(昼夜問わず稼働していた?)という新鮮さと同時に、僕の給食を作ってくれていた見知らぬ人たちが記憶のなかで動きだす。
「引込線」という展覧会は、閉鎖された古い学校給食センター(現在は災害時用の物資や機材の保管場所にされている)を会場にしたサイトスペシフィックな展示が一つのユニークな特徴になっている。建物の詳しい履歴は知らないけれど、戦後のある時期、田舎町の畑の中に、その土地の歴史や伝統や場所性を無視して機能優先でつくられた建物が、それから数十年後、その機能を果たし(あるいは果たせなくなり)、今では(自らと同じように)機能優先で制度化された美術館の空間を批判する場として働いている。建築とイデオロギーや時間のあり方を考えると興味深いことだと思う。

彫刻と建築──利部志穂の制作世界から

※当日は13:30〜13:50に利部さんによるパフォーマンス「パンと彫刻」が開催。『建築と日常』の販売も予定しています。