27日(土)のイベント「建築と歴史の現在」は、会場として使わせていただく法政大学の先生が登壇しないだけでなく、歴史学の専門家も登壇しないので二重に僭越というか、プレッシャーがかかる。以下とりあえずの問題設定。『だれも知らない建築のはなし』評()の論旨とも重なってくる。

●【現状認識】歴史的な感覚の希薄/「今、ここ」の断片化・絶対化
 ……参照:『建築と日常』No.3-4(特集:現在する歴史)巻頭言 0304_kantogen.pdf 直
●歴史の二つのあり方(関連→4月24日
(a)上から眺める歴史|客観的・超越的・観念的・時系列的

  • 例1)人的系譜:

    伊東豊雄妹島和世石上純也
    清家清→篠原一男坂本一成塚本由晴西沢大良→長谷川豪

  • 例2)時代区分:

    歴史主義→モダニズムポストモダン→?
    1968年以前以降/1995年以前以降/3.11以前以降
(b)中から感じる歴史|主観的・経験的・感覚的・無時間的
   ↓
【意見】現在の歴史認識は(a)のほうに偏っているのではないか。(「人間の文化活動に、その内的動機を認めず、すべて外的因子からこれを理解しようとする安易な傾向は、政治主義の発展には好都合なものであった。」by小林秀雄/『建築と日常』No.3-4、p.182)
実際には(a)と(b)の両方&バランスが大切。

  • 例1)大江宏の歴史年表(『建築と日常』No.3-4表紙):年表×肉筆(書き直し)
  • 例2)ペーター・メルクリの発言(『長谷川豪 カンバセーションズ』p.113):「誰にとっても、過去から受け継いできたものや歴史があります。そしてなにかを学ぶためには、過去の出来事を知る必要があるのです。しかしながら、人が芸術的な仕事に携わるときには、そこには歴史的な年代といった序列はなく、単に興味というものがあるだけです。私が仕事をするときには、きわめて主観的に心惹かれた物事を選択しています。」

【戒め】
「たしかに、最近、シンポジウムに参加や聴講しても、意味を見出せないことが多いです。皆、自分のことを話して終わるため、シンポジウムよりも各々のレクチャーを聞きに行った方が密度も高いし面白い。」(石上純也インタヴュー「STUDIO TALK」『GA JAPAN』116号、2012年5月)