昨日の続き。議論のトピックの想定。以下、あくまで司会者個人の想定ですが、当日の議論もそこまで大きくかけ離れた内容にはならないと思います。『長谷川豪 カンバセーションズ』および『建築と日常』No.3-4をお目通しのうえ、あらかじめこれらのトピックについて思いをめぐらせておいていただけると、当日の議論をより有意義に聞いていただけるのではないかと思います。

●長谷川さん発表|『長谷川豪 カンバセーションズ』での問題意識と成果。「歴史」を軸にした自作解説。
●石上さん発表|『建築と日常』No.3-4アンケート回答の説明。「歴史」を軸にした自作解説。
●いわゆる歴史的なプロジェクト(例えば石上さんならモスクワ・金門島コペンハーゲン、長谷川さんなら台北など)における歴史性への意識と、そうではないプロジェクト(例えば郊外の戸建て住宅など)における歴史性への意識の違い、あるいは共通性とは?

●長谷川さんは、もし日本人版『カンバセーションズ』を作るなら妹島さんはインタヴュー候補になると言われていたが、おそらく妹島さんの創作における「歴史」と、例えば磯崎さんや藤森さんの創作における「歴史」は質的に異なる。そこをどう考えられるか。また、「建築の設計において歴史(古さ)が重要」と言ったとき、具体的に建築家はどうすればよいのか?(例えば建築史の本を読む? 歴史的建築を見学する?)
●戦後建築における歴史(伝統)への向き合い方に対する共感あるいは違和感(大江宏・丹下健三白井晟一篠原一男菊竹清訓らの作品についてなど、もし思うところがあれば)

●建築における歴史性(あるいは「古さ」)はどこに現れるか。造形? 装飾? ディテール? 素材? 工法? 空間構成? スケール?……

  • 「結果として平面図に画くことは可能であっても、単純にプランのレイアウトから日本の家や庭は生れない。人の歩むにつれて視点は刻々に移動し、視界が流動し、変転するのは廻遊式庭園の場合だけに限らず、家の中のデザインでも全く同じことである。[…]ここに一貫して流れる構成の基本原理は、人の歩むにつれ、心の移るにつれて同時に移り変ってゆく局面の変化に専らその主点を置くのである。これこそ日本のデザインの秘密を解く鍵である。」(大江宏「建築の本質」『建築文化』1962年9月号/『建築と日常』No.3-4、p.58)

●歴史を媒介する形式性──タイポロジーと型
*タイポロジー:分析的概念・抽象的・静的・共有可能性(知識・情報)・近現代的?
*型     :経験的概念・具体的・動的・共有不可能性(伝承・修練)・前近代的

  • タイポロジーを積極的に用いようとすると建築が場所から乖離する?(参照:長谷川豪「住宅地のLocalとLocus」『JA』94号、2014年6月)
  • 「石上さんのプロジェクトは建築のボキャブラリーをとても大事にしていて、それは僕も共感するんです。[…]まったく新しい建築の形式を見つけ出すというよりは、今まであった形式から考えていて。建築の歴史性も意識しているんですか?」(石上純也インタヴュー/聞き手=長谷川豪「若手世代の住宅設計状況──5人の建築家との対話」『住宅デザインの教科書』エクスナレッジ、2008年)

●日常の有機的全一性のなかでの建築。石上さんは「設計は新しいアイデアを出すことよりも、それを成り立たせるための現実的な調整のほうが重要」ということをしばしば言われるが、それは裏を返せば、今のメディアでは「斬新なアイデア」ばかりが流通するということでは?(①編集者や評論家の能力・意識の問題 ②そもそもの建築の特性の問題)そしてそこで抜け落ちるのが常識的・歴史的感覚?(負のスパイラル)

  • 「『building culture=建物文化』。われわれはつい有名建築や建築家を参照して建築文化(architectural culture)や建築家の文化(architect’s culture)ばかりを話してしまうが、そうではない。文化とはありとあらゆるすべての人がかかわるものなのである。」(長谷川豪『長谷川豪 カンバセーションズ』p.131)

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●日本の建築家が海外で活動することについて(グローバリズムと建築の場所性)
●作者の原体験・原風景と、建築の創作との関係

  • 「設計ということは、自分の原体験、ないしは原風景を明確なかたちに具現化してゆく過程にほかならない。この過程をあるいは創造とよんでもよいであろう。」(大江宏「日本料理店をつくる心構え」『店舗と建築』1980年5月号/『建築と日常』No.3-4、p.52)

●誰に向けて設計をするか──地域や共同体の固有性・歴史性/人類全体の共同性・普遍性