チェーホフを、「カタルシスというものに、もはや意味を見出せなくなった人間達が、散乱する断片の中に座り込む、あるいは歩きつづける状況を描いた作家」だという大庭みな子は、チェーホフを読んでいて、「突然、わたくしは自分が世界の中に立ちつくしているのを悟った」と述べている(「チェーホフとわたくし」『文学』第38巻第9号、1970年)。そういう生なましい〈臨場感〉を受けるのは、チェーホフの作品が、様々な手法によって断片の世界を切り開き、その世界の一部になろうとする意識によって裏付けられているからであろう。

  • 近藤昌夫「チェーホフの〈風景〉──逆遠近法的世界の創出」『えうゐ』19号、1990年

NOBODYに投稿した『だれも知らない建築のはなし』評()では、群像劇というものについて、「私見ではドキュメンタリーおよび群像劇に共通の魅力とは、自分もまたその作品のなかの人々と同じ世界(の違った諸相)を生きているということのリアリティにかかっているように思う」、「おそらくそのとき、それぞれの個が全体に従属したように感じさせないのが、よい群像劇の条件なのだろう」などと分かったようなことを書いている。実際にどこまで分かっているかはともかく、群像劇という作品の構成形式には僕も以前から興味を持っていた。このブログでも、柴崎友香さんの作品群や、エドワード・ヤン監督『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)、富田克也監督『サウダーヂ』(2011)などについて、その群像劇としての質に触れているし、エリック・ロメールホン・サンスの映画も多分にそういう質に支えられているだろう(一方で群像劇として有名なロバート・アルトマンの映画は、僕には今ひとつぴんと来ない)。さらには『建築と日常』No.3-4()のインタヴューで〈複数の場所の併存〉を指摘した坂本一成先生の建築にも、群像劇的な世界観は見いだせると思う。例えば『建築と日常』No.0(2009)に掲載したこういう写真(→カラー版)が写すあり方において。

だから群像劇という構成形式自体を論じたテキストがあれば読んでみたいと思っているのだけど、なにか代表的と言えるようなものはあるのだろうか。ネットですこし検索した限りでは、それらしいものは見当たらない。あるいはやはり個々の作家論に根ざしたものになるのだろうか。そうするとチェーホフあたりに研究の蓄積がありそうな気がするけれど、3年くらい前に期待して手に入れた中村雄二郎チェーホフの世界──私の方法序説』(白水社、1979)も、特にそういう視点で書かれたものではなかった。