『建築と日常』建築講座2014の第3回が終了。今日はほぼ時間どおりに終わった。しかし、ルネサンスマニエリスムバロックまでやって、ロココは次回に先送り。西洋建築史の古代/中世/近世という時代区分は、それぞれおよそ3000年間/1000年間/300年間なのに、扱う内容のヴォリュームはむしろ時代が下るにつれ増えていく。ただ、次回の近代は、19世紀末のアール・ヌーヴォーに至る前までしか講義の準備がなく(それ以降は後期の別の講義の範囲だった)、分量的に足りなさそうな気がする。それもあって、ロココを近代の回に持ってきたのだった。

次回予告
第4回/10月4日(土)/西洋建築史:近代(新古典主義〜19世紀建築〜初期モダニズム

『建築と日常』建築講座2014 http://kentikutonitijou.web.fc2.com/lecture/lecture2014.html

モダニズムというものがなんなのか、僕自身よく分かっていない。たぶん思想として捉えるか、様式として捉えるか、社会現象として捉えるかでも大きく異なるだろう。少なくとも完全に外部のものとして対象化して批判するようなことはできないし、現在においても個々の創作をするに当たって展開できる面はあるのだと思う。槇さんのテキストがわりと長いので、これをすこしじっくり読んで考えるようなことをしてみたい。あとは別冊の『多木浩二と建築』()で再録した「建築のロゴス──坂本一成モダニズム」(初出:多木浩二『進歩とカタストロフィ──モダニズム 夢の百年』青土社、2005)にも触れたい。

鈴木 いま一般には、現代建築が混迷しているとか、近代建築が破産しているとか、或いは限界だとかいわれていますけれども。
大江 そこで、よく近代建築を短絡的に否定しようとしたり、近代建築を乗り越えようとかなんとかいうレベルで話をしても、そういう捉え方はむしろ非常に危険なことだと思う。それが近代建築であったか、古典主義建築であったか、そういうところとは関係なしに、むしろ体から離れていくか、体といつもレスポンスしているかということのほうが、より根本的な問題だといえますね。常に問題の焦点はそこにある。

  • 大江宏・鈴木博之「建築と意匠」『カラム』69号、1978年8月(所収:大江宏『建築と気配』思潮社、1989、p.75)

近代の最大の遺産というのは、なんといっても空間というものをきちっと意識的にとらえるという見方を与えてくれたことですね。今までの伝統的な建築はこういう空間構成になっているから、ということで漫然と踏襲してきたものを、じかに空間というものを意識してとらえさせた。それから構造というものを意識させた。さらに比例を意識する。この三つは、古代から建築はみんな必ず備えていたものなのです。ただつくる人間がそれをどこまで意識的に的確にとらえ得るか。その自覚を促してくれたということが、われわれが受けた近代建築の最大の恩恵ですね。

  • 大江宏インタヴュー「混在併存から渾然一体へ」『新建築』1984年1月号(所収:大江宏『建築作法──混在併存の思想から』思潮社、1989、p.124)

20世紀は長いようで短い。その世紀の初めと現在の差異は否定すべくもない。だがそれは技術の差異だけではない。おそらく世界を認識する方法の差異が決定的であったろう。[…]私にはbeyond modernismというキャッチフレーズはたいした意味をもたない。もしモダニズムを捉え直そうとするならば、かつての栄光や悲惨も現在において認識する歴史哲学が必要なのである。